『教育と文化』第100号をもって廃刊に

私が所員、復代表、代表(後に所長)として関わっていた国民教育文化総合研究所の季刊誌『教育と文化』が第100号をもって廃刊することになった時、求められた書いた一文である。


 『季刊フォーラム 教育と文化』の創刊は1995年10月であった。1992年8月、教育総研の夏季研究集会の折、転んだ弾みで頸椎を損傷し、それ以降、寝たきり状態になられた海老原治善初代所長にかわった日高六郎第2代所長の時である。いや正確にいえば、編集や執筆時期がその時であり、発行日の10月は宮坂広作第3代所長になっていた。  当時の編集委員会メンバーを確認すると、原田三朗(研究会議議長)を編集長とし、宮坂広作(研究会議議員)、鎌倉孝夫(副所長)、黒沢維昭(所員)、日高六郎(所長)、嶺井正也(所員)、西沢清(副所長)、松崎昂(事務局長)が編集委員となっているた。  巻頭言は日高所長の「発刊に寄せて」であり、巻頭言の後の「発刊に寄せて」欄には横山英一日本教職員組合中央執行委員長、奥地圭子東京シューレ代表、栗林世連合総合死活開発研究所所長、佐藤竺財団法人地方自治総合研究所所長、そして最後に海老原治善教育総研顧問がメッセージを寄せている。 

 横山委員長のメッセージには教育総研が1990年6月に創立されて五周年にあたって本誌が創刊されたと書いてあるが、教育総研が海老原所長、鎌倉・西沢副所長体制として開所し、実際に機能し始めたのは1991年8月からである。したがって、実際の活動を起点として考えれば四年を経過してからのことである。

  特集の設定、執筆者の選定・依頼など毎回苦労したことが思い出されるが、一番悩ましかったことはなかなか販売部数が伸びないことであった。そもそも教育総研自体が組合員に知られていないことも大きく影響したのかも知れないが、販売部数が伸びないのは頭痛の種だった。  本誌の編集、発行はさまざまな試行錯誤の連続であったことが記憶に残っているが、二つのエピソードを紹介しておきたい。

 一つは、日教組の「顔」ともいえた『教育評論』が2007年1月をもって休刊となるので、それを「教育と文化」で引き継いで欲しい、と当時の副所長から告げられた時に、おおおいに戸惑ったことがあった。 

 『教育と評論』には拙稿を書かせてもらったことはあったが、編集に関係したことは一切なかった。したがって、何を、どのように引き継げばいいのかはっきりつかめないままに引き継ぐことになった。編集委員会で議論した結果、第48号から「教育現場の肉声を聞く」というコーナーを設けたのである。そのことについては第50号の巻頭言に、当時教育総研代表になった私が書いている。ただ、この新たなコーナーが「教育評論」を何らかの意味で引き継ぐことになったのかについては自信がない。

  二つめは、第69号をもって私が編集人を降りたことである。編集責任を明確にするということもあり、第8号からは「編集委員会」ではなく単独名の「編集人」方式とし、代々、代表・所長(所長制→代表制→所長制と、私が関わっていた時代にはこう変遷している)がその任についてきた。 私がその編集人であっただが、70号編集の段階で、原稿依頼を行い、書いてもらった原稿を不掲載にせざるを得ないという事態が発生した。その理由や経緯についての詳細は省略するが、執筆内容自体に問題があったわけでもなく諸事情による不掲載である。編集人としての責任は免れないと判断し、第70号からは池田賢市副所長に編集人をお願いした。

  以上が簡単な廃刊に寄せるコメントである。教育総研の理論誌としての『教育と文化』が100号をもって廃刊することが何を意味するのかを自問しながら、本稿を閉じることとしたい。

嶺井正也の教育情報

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