『大隅史談会誌 創刊号』(昭和29年)所収
*鹿児島県立図書館のコピーサービスで取り寄せた下記論文を書き起こしたみた。長時間を要した。判読できない漢字がいくつかあったので、そこは?と記している。途中、掲載されている漢詩については今後、読み解いて行きたい。論者は当時の大隅史談会会長の永井彦熊さんである。
大隅の鴻儒(儒教の大学者のこと)九華と足利学校 その1
永 井 彦 熊
足利学校と三州人
暗雲低迷―干戈寧日(戦のない平穏な日々のこと)なかつた戦国時代に於て、独り学問の命脈を保つて居たのは、諸侯に於て我が三州の島津氏と安芸の大内氏とで、学問の府としては京の五山、金沢文庫と此の足利学校にすぎなかつた。
然し大内氏は陶氏の為に亡され金沢文庫は当時有名無実に衰微し京の五山又振わず文華の光を妖塵の中に放つたのは、西に薩南文学あり東に足利学校あるのみであつた。
然かも文華一輪荒んだ戦国時代に光彩を放つ足利学校の司業(庠主、校主)が我が大隅より出てたる学者に継承され吾国戦時代の文学が実に三州の人々に依つて保たれしことに想到すれば転た吾人の誇りを感じ愉悦を覚えるものである。 以下九華臾(老)伊集院氏について述べる事にする。
然し三州に於て桂庵禪師の文学的地位の大なることは旣に知られている。それは前半生中央に過ごし後半生を三州に終わつた関係もあろうが、三州を出でて中央及東国に名をなした九華の如き大儒が今尚否大隅の人々に知られないのは誠に遺憾の極である。
以下九華臾(老)伊集院氏について述べる事にする。
足利学校の沿革
九華を述べる前に先ず足利学校の沿革を述べなければならぬ。足利学校は栃木県足利市にあり、学校内古木と言ふ可き古木は認めないが、幾年を経て古き門がある「入徳門」と言う篇額が懸つている。儒学の門らしい感が起る。入徳門を越えると正門に杏檀門はいつも閉ぢて特別の観覧者なき限り開かない。左方に現在の足利市の図書館があるが、貴重図書は奥深く蔵して市長の許可なき者は閲覧を許さない。多数の国宝的貴重図書であるから一頁の汚損さえも忽せにしないのは或は無理からぬ事ではあるが、遠くから来た研究者の為にもつと簡易な方法を以て閲覧せしめる事は出来ないものであろうか。
足利学校創設の起源
此の足利学校創設には二(ママ)説がある。
第一説は上古の国学の後を引き続いて上杉憲実が補修したのではあるまいかとの説が足利学校事蹟考に現れて居る。即ち本校所蔵の古書に押印した「野之国学」の印影及上杉憲実の実状文本朝通鑑に依つて斯く?頭される点もある。 第二説は小野篁創設の説である。それは本校所蔵足利学校由緒記、同足利学校由略記、鎌倉大蔵紙、三才図絵、山吹日記、醍醐記談等にある。
第三説に、藤原秀鄕の曽孫建設すと言う説があるが、国学遺制説よりも此の小野篁説の方が有力視され、殆ど確定的に見られ篁の木像等が安置してあるのを見ても此の説の有力さを物語つている。
即ち上古国学の荒廃せるを小野篁その古跡に更に学校を創立したものと想像される。国学の置かれし年代は正史に明確にされてある通り、文武天皇大宝元年諸国に国学の制があつた。それより百三十一年を過ぐる淳和天皇天長九年八月五日篁が創設し復興したので今を過ぐる一、一二〇年前であつた。位置は此処でなくして毛野村大字岩井十念寺の附近になつているが、今は渡良瀬川の為に陥没して川になつている。
それより篁の子孫遺業を継いで行つたらしいが其の間全く不明になつている。
何故に京に居し篁がかくも東国に関係が深いか、それは篁の父岑守が下野守となつて東下し時篁等は従つて客遊し、且つ足利はその祖先の由緒の地、毛人毛野父子足利に生れ足利に住し、篁の子俊生もまた下野守として足利に居し故鄕国として晩年此処に病躯を養つたと言う伝説がある。
篁は漢学者で和歌も巧に孫の道風は文字の上手な人。わたの原八十島かけて云々の歌人口に膾炙されている。
室町時代になつて貞和年中足利基氏の関東管領となり此の足利学校の荒廃に赴くのを嘆いたが、永享十一年上杉管領たるに及んで更に之を修理し数部の巻冊を明国に求め寄贈し鎌倉円覚寺の僧、快之(足利学校HPによる初代は快元とはなっている)をもつて庠主とした。
爾後世々僧を以て学校の司業とした憲実の子憲忠、孫憲房など父祖の業を継いで兵馬倥倊(へいばこうそう:戦争のために忙しくあわただしいこと)の間にあつて心を文学に尽し典籍を修収した。
快之(ママ)より七世の僧九華、之が我が三州から出た大学者で当時恐らく彼の右に出る者はなかつた。
九世校主之佶(足利学校HPでは元佶(ゲンキツ)とある)は学は文武を兼ね家康の寵厚く書冊二百余部、木製活字数十万顆及出地百石を寄贈した。然し現在は活字は存しない。
吉宗の時、日光に参拜する途中本校の蔵書を検し、甚だ珍とし鄭重に保存せしめたが、宝暦四年(我が三州は木曽川治水工事のある年代)雷火にかかり図書旧記等消失した。
幕府は直に修理をなさしめたが、珍本奇籍等消失したのは遺憾の極みである。 明治五年足利藩より栃木県に属し、九年足利市のものとなつた。
足利学校と三州人
起 雲
曩きに京都五山に竹居(薩)天游(隅)の如き学者を出して、衰微極まる戦国時代の文学に最初の花を咲かしめた三州は更に起雲の如き学者を出している。
日向の出身で、応仁の亂頃上京したらしい。然し京は戦亂日を継いで研讃(ママ)に不便なりし為当時名高い足利学校に來た。之が足利学校に於ける三州人の足跡の第一である。然し起雲の作も事歴も委しくは判明せず只日向とのみあるのと起雲丈人を送ると言う漆涌万里の詩の序等に依つて推察する他に途がない 。総て三州出身の学者は只国名ばかり判明してその事歴及作品等が残つていないので、当時交游せし友人子弟等詩賦等よりその半面を察するより他はない。
日州之起雲丈人 負笈於関左
十有星霜 拾紅螢而続?之労
使鬂有両色
即ち二十五、六歳にて東游して十四年両鬂は霜を飾らんとする時まで十余年一日の如く螢?の労(蛍雪の功の間違いか?)を重ねた。学なりて歸国の途次文明七年当時江戸にいた万里を訪ねた。其時の万里の歌に
関左留鞋十四年 山看富士水隅田
角声昨夜俄吹起 一別送君梅以前
転句の角声昨夜云々は唐詩の七絶の詩そのままであるが、起雲を惜しむ別れの情が現れている。よく此の地方の人々は梅花を賦しているが、梅花は当時桜花より美しく又香があった為であろう。固陰(極寒の意味)厳しき時花の雲のように見える梅林の趣は又此の地方ならでは見られない風情である。
天 府
丁度同時代に天府が居た事が漆涌万里の詩序に依つて明かである。天府は薩摩の人である。
薩州之天府老人 挟笈東游 余嘗
邂逅武蔵江戸城
とあり。
太田資康の館に会つている。年齢も判然としないが老人とあるからには相当な年配であろう。 兎角三州より来游した人々は、起雲にしろ、天府にせよ、後述の九華にせよ、三十前後の時出鄕したらしい。之は最もな事で、国に学問を求めて満足し得ず、外に求めんと出発したもので研鑽幾十年、歸る時は大抵繁霜を帯びて歸国している。
鶴 翁
三州人ではないが関係深い琉球の僧である。初め京の東福寺に来て彭叔禪師に従学し後学校に入学し六世文伯に師事した。内地に居ること十三年、天文六年足利より京に入り、彭叔に辞謝して国に歸つた。其の時の詩があるが略する。
天 濢
名は崇春、日向飫肥の人である。初め桂庵禪師の門人雲夢に師事したが、大永七年年十九笈を負うて足利学校に入り六世文伯に学ぶこと五、六年、時に名を不閑と改む。後越前にて十余年四十九歳にて歸国し西光寺に住す。薩南文学の俊才南浦文之は幼時此の人の弟子である。
湯 岑
名は長温日向大光寺の僧である。六代校主の文伯に師事する事十年、天文十五年辞して歸国した。
玉 仲
之も日向の人である。六世文伯か七世九華に師事したものらしいが確然としない。小早川隆景の師となつた。隆景の心境に影響した点は大である。
九 華
仲翁、起雲、天府等、学校に学んだ学者の多い中で独り燦然と輝き我が三州人のために万丈の気を吐いて此の時代の学者として不滅の光を放つものは九華である。
九華の出生
九華は明応七年(一四九九?)我が大隅の伊集院氏の支族に生れた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集院氏であるから当時の大隅に於ける伊集院は垂水か加治木か判明しないが、現在伊集院の姓は垂水方面に多い処から見て或は同地方であつたかも知れず或は伊集院の姓でなかつたかも知れない。 名は瑞古、玉崗と号する。
丁度足利将軍は十一代義澄の時朝倉の族越前に勢力を張らんとする頃に西海に出生した。鄕里に於ての行為は全く不明であり研究も余地があるが、享禄四年頃(一五三一)か天文元年(一五三二)、九華三十四、五才の時笈を負うて東上した。旣に九華の生るる頃は先輩の起雲は没し天府も又無かったが、足利学校の声名は当時戦国時代に於て文学の府として全国に響いていたのである。
旣に国に於て研学した九華は学校に於ても其の鋭角を現し早くも三、四年にして天文六年三十八歳の時学校に選ばれて一年間京都の東福寺善恵軒に寓して修禪した。元來足利学校は純学問の府であるが一世庠主快元以下各僧いずれも儒仏混同の臭いがした。
之は当時の支那に於ても儒敎の中に仏敎が含まれ、学者は僧もあり仏敎に通じる者が多かつた。
当時の善惠軒主彭叔禪師の猶如昨夢集の詩を引來すれば 。
関左有僧与云 夙於鄕校 雖立勧業之功
猶為不矣 今慈丁酉暮春 掛錫乎我善
惠之小軒 可謂学精干勤
予卒綴八七言一章
不遠関東千里大 寄生?殻王炊烟
何唯同人儒兼老 只?来参詩又禅
扶杖眺望士峰高 煮茶今酌惠山泉
七書勉旆此地又村校 夜雨青灯約十年
詩序中古と言うのは瑞古にして九華の事で、関左と言うのは逢坂の関以東を言つたのであろう。 此の詩は賢甫及哲(未詳)の三人に贈つた詩であるけれども三人の中の首席たる九華の事を主として作つた事は勿論である。
彭叔の賞辞であるが儒、仏に亘つた九華の学問は該博であつたに違いない。
一年研鑽の功あり東に帰らんとする時に彭叔送るの詩がある。
九華老衲随賢甫 遠関東之郷梓 於是
詩以餞其行色云
五経聞説久蟠 経歴一年歸意濃
貧聴東関村校雨 莫忘惠日寺楼鐘
三十九歳初老に近いから九華老衲と言つたのかも知れない。即ち別れの情緒豊かなるが詩に籠つている。
九華の人物
京都より歸つて十余年九華の声望日々厚きを加え天文十九年六世庠主文伯が寂して其の後を継いだ時に五十一歳であつた。九華の学問に孜々(しし)として倦まざりしは三十五、六才にて東游せしにても知る可く、之に加うるに人格高潔にして学識博く為に学徒四方より集り來り門弟実に三千人、その盛況前後比なく北は奥州方面より南は九州の果てまで至らざるはなく、天叟、熈春、真瑞、乾室、蛮宿、英文、九世閑室十世龍派、要法寺の日性、天台の天海等高弟が雲の如く輩出したが、、我が三州よりも承直(日向)以継(薩摩)、文苑(同)、九益(大隅)著名の士があった。
殊に生徒を指導することの手厚かつた点、各個別に指導せし点などは現今の個性指導と同じく学生不解の字又は語ある時は紙に記して学校庭前の松の木の樹幹又は樹枝に貼れば九華は毎日其の解答を懇切に貼紙の傍に書くのを例としていた。故に当時の人々は此の松を字降の松(かなふりまつのまつ)と名づけていた。現存している松は其の子孫だと言う。 何千の生徒中其の重だつた人々を指導するにしても大変である。人が違えば質問も様々である。
それを面倒とも思わず丁寧に指導する真摯なる態度は教育者の模範とせねばならぬ。其の説くや微に入り細に亘つて説明した。弟子の熈春が周易の講を感謝したる詩の序に、天正十二年八月十日、九華の七回忌辰の詩序の一句に、聞講周易 十旬而終之恩義大哉と言ひ、又、徳香不改七梅花 と七絶の結句に賦して徳を慕うているのを見れば死後七年愈々学徳の光耀せしを知る。
其の学識深く人格高潔にして学校殷賑(活気があってにぎやかなこと)一世に秀でていたことは、当時学敵、京五山派の如何に懼れたかは耆叔宿彭の詩にても知る可く
癸丑之歳予有招熈春首座之野作
学校老師九華次其韻 賜一章
後日不聞鴻恩 因而不能再和 多罪多罪
今茲乙卯熈老歸京於是乎 有僧入関左
不堪?躍 遂鬱前韻 叨啜一絶以
奉答千机下 云
師翁立学在東方 孔日 回猶未□(不明の字)
白髪▢▢齢六十 靑衿着了侍灯光
癸丑は天文二十二年、熈春は九華の高弟にして東福寺の僧である。
此の詩は彭叙が九華の門に入つている熈春を招師せる詩に九華が和韻して贈れる詩を見熈春が歸山後再和して贈れる詩であるが、惜しむらくは九華の詩秩亡して伝わらず、此の詩によつて察するに如何に尊敬し敬意を表しているかの一面が偲ばれる。
同じく五山の僧巣雪が鎌倉に来たりし時の詩を見るに
自鎌倉 寄九華 詩
九華山容名字新 思量学者仰之臻
桃紅 李白薔薇紫 東魯 春風属一人
学者仰いで臻(いた)り紅白とりどりの花は一人を慕つて集まる如何に崇望されたかが察せられる。
九華歸國の意志
然し九華も寄る年波の繁くして故鄕懐しくなつたのであろう。学校は八世校主宗銀に譲り、大隅の故鄕へ歸らんと発足した。時に永禄三年九華六十一歳、周易一百日の講義を終へ歸途についた。時に織田信長が駿遠参の雄今川義元を桶狭間に破つた年である。
此の事文選三十九巻末に左の如く記してある。
九華六十一歳周易一百之会十有六度伝授
之徒以上百人也欲赴鄕梓(故郷のこと)之時云々
とあり、此の戦国禍亂の間を歸らんとして相模の小田原を過ぐる時、太守北条氏康父子に嘱望されて六韜三略の兵法を講義した。
父子は数旬に亘る講義を聴き九華の学の該博なるに敬意を表し可惜此人西海の果てに歸るを惜し み、且つ又学校の後継者此の人に及ぶ者なきを嘆き、強いて歸国を思い止めしめ金沢文庫の朱版文選他数種の珍本を与へて強いて歸校を望んで子弟の尽力を願つた。
此の歸國を惜しんだ事は氏康の家臣宗甫より学校宛の文書に簡単ではあるが出ている。
一 相続而被置学校能化大才之方無之処
此度之御歸國歎敷 被思召候事
二 畢竟可有御抑留之由 然御覚悟之通
有之候可被御中止事
五月九日
九華は氏康父子の懇望黙止難く遂に歸国を断念して其の贈られた金沢文庫の書籍を所持して再び教育振興に尽くした。 足利学校蔵書栄版文選に金沢文庫の捺印あり第三九の巻末に自筆が載つている。 隅之産九華六十一歳欲赴鄕梓 之時抑留次有寄進
と識してある。 其後孜々として学校経営の任に当り隆盛を極めたが、天正六年八月十日年七十九に歿した。我が三州では島津貴久公歿後七年の後である。武田勝頼と信長と対陣の年で在職二十九年であった。
九華の学問
(足利学校と学科)
足利学校は純然たる儒学の学校で上杉憲実の定めた日記に拠つても明らかである。
三注 千字文注 古注蒙求 胡會詩注
四書
六経 列子、荘子、老子、史記、文選
他は講ず可らざるを禁ずる及ばずとある如く老荘も少しくやるが全く儒学以外には出なかつたらしい。
それは一代校主快元より九代校主閑室に至るまで学校に収蔵せる書籍を見ても明らかである。
今蔵書の一覧を挙げて参考に資せよう。
一、 周易注䟽(ちゅうそ)(孔頴達) 宋版二十五冊(タテ七寸二分、横五寸四分)
一、 尚書注疏 孔頴達 宋版 上杉安房守憲実 寄進
・礼記正義 孔頴達 宋版
・論 語 写本
・文 選 北条氏政寄進 司業九華の奥書がある。
其 他
・周 易 宋版 十三冊
・後漢書 明版
・古文考経 写本
・周 礼 宋版
・春秋経伝抄 写本
・聖学心法 朝鮮版
・史記抄 写本
・三 略 活字本
・周易注疏 写本 紹熙三年(一一九二)以前の刊行
本書は陸子ぼう(陸放翁の第六子)の所蔵本であって毎冊自筆の識語がある。
十三冊目に
端平二年正月十日鏡陽嗣隠陸子ぼう 先君子手標以朱点伝之之大雪始晴 謹記
とある。清人徐致遠は之を見て稀世の珍宝と言つている。
之等の本は日本には勿論支那に於ても珍籍とすべきものである。
・周易伝本 写本 之などは支那には全くなく珍とすべきもの。
・周易啓蒙通釈 古写本
・周易啓蒙異伝 古写本 (とう序之牧)
・歸 蔵 写本
殷時代には易を歸蔵と言う。
・周易抄
其 他
・尚 書 古文尚書
詩類に於ては
・毛詩鄭箋
・詩伝綱領 毛詩抄
・礼 記 古写本 鄭玄注
七世校主九華の訓点がある。
巻一の卷末に左の奥書がある。
延徳二年(一四九〇)五月二十二日
建仁寺大童庵一牛蔵王寄
至徳二年(一三五八)六月十一日
以五条大外記
永和元年(一三七五)五月二日
以此本 候禁裏 御読記
・礼記集説 元版 五冊 九華の手筆あり
・七書講義 十冊
古写本 宋施子美撰
九華自筆の識語あり
九冊尾に借大隅之産九益手 以印校校之
文選は九華、氏政より戴いたものだけに九華の最も愛したものである。
九華も氏政の誠意ある引き止めには感激したらしく一冊毎に其の理由を奥書に叙している。
金沢文庫の墨印ある上に北条氏の名高い二寸角大の虎の印が捺してある。
毎冊の奥書は大同小異で既に前述してあるが巻三十の尾を記すると。
隅州産九華行年六十一之時欲赴千鄕里過相州太守
氏康、氏政父子聴三略後話柄之次賜之又請再住
千謂堂 (巻三〇尾)
此の蔵書の目録を一瞥するに、第一気附くのは易の書の多い事である。卽ち此の学校が当時如何に易及兵書の講義に力を用いたるかは時代の反映とは言え当時戦亂の時代の人々の心理の程が窺はれる。
九華と易
九華は殊に易に精しかつた。 それは文選巻の三十九の末尾に
九華叟六十一歳易講一百日之会十有六度伝授之徒
以上百人也欲赴鄕梓之時抑留次有寄進也
とあり。百日の講座十六回を終えている。如何に周易に精しく如何に当時の人々に要求されたかが推察され之は門弟熈春が周易の講を感謝したる詩の序に
天正十二年九月十日九華七回忌辰之詩序に 予東游之日就禪寺 聞講周易 十旬而終之
恩義大哉
と言い
八月回春再来相
徳香不改七梅花
と当時の講は勿論周易ではあるが乾(元の間違いか?)亨利貞の初めよりこん繁辞すべてに亘り就中繁辞の大衍の段に於ては最も力を注いだらしい。
それは当時戦亂起伏一挙一動生死の境に出入りする者に於ては総てを占筮龜ほくに訴えて運を易によつて判断したのは無理もない事である。勿論占筮術は古来幾多の方法が行はれたが、今周易の繁辞伝の注疏に依りて述べる事にしよう。
学校の易学を言へば戦国時代当時皆尊敬せざるなく学校の講義にも、又力を注ぎ九華の如きは十六回も繰り返している。
学校の易学に正伝と別伝とがある。
正伝は経文の解釈に止つて孔子の思想を述べ其の根底をなすものであり、別伝占筮術であつて此の正伝の応用である。
即ち占筮術は易の繁辞の上
大衍之数五十其用四十有九
のところより生れ出てたるものであつて、真言流を受け継いだ学校の占筮術も周易の注疏を本とした事は言を俟たない。 今周易の疏を見れば
易有太極謂北辰也。 太極生両儀両儀生日月
日月生四時四時生五行(木火土金水)五行生
十二月十二月生二十四気 北辰居位不動
其余四十九転蓮而用也
とあり、更に
分而為一一以象両掛一以象三揲之以四。以象四
時歸奇於ろく
と本文にあり疏に
分而為一一以象両君 五十之内去其一余有四
十九合同未分是象太一也。 今以四十九分而
為一一以象両儀也
五〇の内一を置く之を太極と名づけ太極は無極にして宇宙の根元、陰陽二元は之より出づるものである。即ち 象太一也今以四十九分而為一一象両儀 残りの四十九を分つて二つとなし陰陽の二儀に象る。茲に於て太極より陰陽の二儀出でたることが明らかとなりこの二儀より四時春夏秋冬が依つて生じる。
即ち此の陰陽が天地であり左右であり左手持つものが陽であり天であり、右手にある方が地であり陰である。即ち同じく
旣分天地天於左手地於右手乃四四揲天乃数
先ず右手の員を置いて左手の天を執り扐を執って於く。之を人に譬う。之を象三才と言う。而し其の残りを四即ち春夏秋冬づつに揲い、然して最未之余歸之合於扐掛之一処是揲也 之を扐に歸すと言うのである。
更に又
以四四揲地之数最末之余又合於前所歸之扐
而総掛之是再扐而後掛也
則ち地(陰)と取りて春夏秋冬の四つづつに揲つこと前の陽の時と同じく拐(扐の間違いか)に歸せしむれば第一変の掛けが終わる。
之を天地人の三回を一変とし六回十八変すれば遇卦として老陰老陽小陰小陽と言う卦に進み天地万物に発展し大は天心を見がは明日の行為を判断するのである。
此の占筮法に宿曜流、真言流、等家流という様に分流したが、学校のは真言流の流れを汲んだものである。余段に亘つたが兎角足利学校の占筮術は名高かかつたもので、諸侯は多く之によつて戦争の出発吉凶の善惡を卜した。
九華の学問は此の易ばかりではない。礼記の巻末に
大隅九華同注以正 とあり、礼記を注し他の異本と校合している。
七書 講義も、九益に言いつけて注校している。
六韜之略にも通じていた事は氏康父子に講じて父子を感ぜしめた事にても知る可く、学として渉らざるはなく文選の俊麗なる駢文(べんぶん:中国の文語文における文体の一つ)なども点注をしている。
他の本と引き合はして校註したらしく善本(校訂・注釈などが行き届いている本)には何々に作る云々と言う朱点の処がしばしば見受けられ、或は地名の話なども詳細を極めているが、惜しむらくは自己の意見が附加してないのは物足らぬ感がないではないでもないが、九華としては独断を懼れて或は記さなかったのかも知れない。
今文選巻末の奥書を記せば
〇文選目録終
加朱墨三要
学 校 寄 進 平氏政朝臣
永禄三庚 六月七日 司業大隅九華臾
二寸角の北条氏の虎の印
〇巻二終
学庠寄進(達筆にて) 永禄第三新集庚申六月七日 平氏政朝臣 虎 印 司業大隅産九華臾(花押) 加朱墨点三要
然し残念なことには九華の詩九華の文が一篇も残つていないのは惜しんでも余りあるところで、其の人となり学問等も知るに由なく、只僅かに弟子等の詩により、或は奥書により、或は足利学校由緒記等により其の片鱗を窺うより他にない。
三州よりの門人
承直 此の人は日向長楽寺の僧にして元龜元年学校に入り九華の門人となつた。詳かなことは判然としない。 以繼 名は宗紹、薩摩の人で東上し鎌倉に遊びついで学校にて九華に学んだ。永禄元龜の頃と推察される。
文苑 名は宗方、薩摩?錠山寺の僧である。古渓禪師と同時代の頃の人であるから九華に師事した事は疑う可くもない。
九益 大隅の人 学校蔵書七書講義の九華の識語に曰く
惜大隅之産九益手以印本校之
九益の事も之のみで明細な事は分明ではないが、九の字は 九華の一字を或は与えたのかも知れない。勿論国へ歸つたのか判然としない
九華と其の弟子
九華の門弟は三州よりの人々にても斯く著名な人々があつたが全国的に集まつた門人の名高い人は
八代庠主宗銀 三州出身の俊才。日向であるが九華の後を継いで校主となる事九年、天正十七年十月歿し著書も多かつたが多くは散逸して死せし年齢さへも判明しない。
九世閑室 肥前の人。円道寺に祝髪し後学校に遊学し九華に師事し俊秀を以て同門の間に推重せらる。学校中興の主と言われ家康の知遇を享け伏見に円光寺を創立し足利学校を真似て学問起こし家康儘釈の書二百余部を下賜した。徳川幕府の学問の奨励は一朝一夕の事ではなく閑室等の力、陰に動いている。 閑室は又朝鮮よりの使節に応対し外国渡航末所の事を司り家康駿府に隠居するに及んで常に京と駿府の間を往復した。前述の関ヶ原龜卜の事は名高い話である。
十世龍派 武蔵の国の人。幼時円覚寺に居て学んだが元龜 二年足利学校に入り九華に就いて学び九華の歿するまで師事し十世庠主となり屡々江戸城に召された。
古渓 越前の人。真瑞不明熈春 は九華の門弟中特に名高く旣に前述している。
天海 最後に門人の中に、家康の師事した天海和尚がある。天海は会津の人。三浦氏天台宗の僧にして南光坊という。足利学校に学ぶ事四年殊に周易に詳しかつた。墨染の宰相として惟惺の中に策を?らした事は名高い話で政治は天海に聴けと遺言した程であつた。
此の他乾室(伊予安楽寺の僧、天文二十三年歸郷)変伯(信濃関善寺)、春岳、文石、瑞俊、九海等名高つた。 九華の作った総籍簿と言うものがあり学徒の生国名を記して保存してあつたが、宝暦の雷火の時に灰塵に歸したのは惜しんでも余りがある。僅かに如上の事蹟と子弟を知るのみである。
九華出廬(世に出て活躍すること)の頃の三州
大人物大学者等の出づるには必ず其の背景がなくてはならぬ。我が三州よりもかくも衰微の戦国時代に多くの学者を輩出せしめたかは吾人の見逃してはならぬ要件である。
資料に乏しい自分の手許に於て当時の三州の文学史の一部を呍為(ウンヌン?)するのは当らないかも知れぬが、戦国も末期となり肝属,伊地知等称寝(ネジメ)の豪族漸く衰え三州は島津氏統一ならんと日新公治世の時であつた。
卽ち我が薩南文学の始祖とも言う可き桂庵禪師は鹿児島に或は飫肥に学問の普及に尽瘁した。多少の波瀾はあつたにせよ、他国は戦亂日を続いて起るに比し我が三州はきう然として文化の華が咲き亂れた。之が中央に近かつたら我が国文学史上に一大変動を起したに違いないが、惜しむらくは西埵(サイタ)の地世人が認めぬのが残念である。
九華の生れた時は禪師はまだ矍鑠(かくしゃく)として三州は学問の爛熟期であつた。此の時に於て名高かりし足利学校に笈を負うて東上したのは又所以あるところであろう。 九華の事蹟は不完全な点が多く研究の余地あるが、又追つて稿を改めて書くことにする。