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 この大著の副題は「養護学校義務化反対をめぐる教育思想」。もっと早くにコメントすべき本だった。

 同書の存在を知った時、東京大学の研究者グループがこんな本を出したことが信じられなかった。

故持田栄一教授以外に、養護学校義務化反対の運動と思想を好意的に取り上げる研究者がいたことに驚いてしまった。

 内容に触れる前に、先ず、目次をみておきたい。すべてについて触れることはできないが、第Ⅳ部第13章「教育学における応答ー少数の教育学者たちによる理論的挑戦」は、私自身についても触れているだけでなく、尊敬する先輩だった故岡村達雄さんの思想と理論を詳細に論じているので。次回に触れることにする。


序 章 養護学校義務化反対運動が提起したこと(小国喜弘) 

 第一節 問題の所在――普通学校における排除と「共生」の模索

  第二節 先行研究の状況と本書の課題 

 第三節 本書の構成 

 第1章 障害児教育における包摂と排除――共生教育運動を分析するために(小国喜弘)

  第一節 戦後における障害児教育の本格的始動 

  第二節 障害者施設の充実と隔離 

 第三節 日本における能力主義教育政策の展開 

 第四節 全障研と全障連の対立  第五節 養護学校義務化における包摂と排除 第I部 「共生」の 教育を求めて

 第2章 大規模施設も養護学校もいらない――八木下浩一・「街に生きる」意味と就学運動(小国喜弘) 

 第一節 就学運動の始まり

  第二節 福祉施設・養護学校への拒否感情と「街に生きる」こと 

 第三節 学校体験と能力主義の壁

  第四節 養護学校義務化阻止闘争――闘争の経緯

  第五節 障害の「地域モデル」へ  第六節 改めて「街」に生きること

 第3章 なぜ「分けない」ことが大事なのか――公立中学校特殊学級教師・北村小夜の闘い(渡邊真之)  

 第一節 共生教育運動を支えた教師たち

  第二節 一緒がいいならなぜ分けた――特殊学級と交流教育の間違いに気づく

  第三節 「普通」を問う――特殊学級から学校と社会を問い直す

  第四節 「分けない」思想の現代的意義 

 第4章 「障害児」は存在しない!――がっこの会による就学時健康診断反対闘争(高橋沙希)

  第一節 「〈自閉症児〉は存在するのか」

  第二節 「就学児診断はさぼってしまいましょう」

  第三節 「おしっこはできないけどただの子です」 

 第四節 「学校を見限る」

  第五節 いま,再び問い直す――がっこの会が提起したこと

 第5章 「せめぎ合う共生」を求めて――子供問題研究会における「生き合う」関係(中田圭吾)  第一節 「子供問題研究会」の誕生――親の絶望からのスタート

  第二節 「専門家幻想」に抗って「ずぶとく賢い親に……」

  第三節 共生の原イメージとしての「せめぎ合う共生」

  第四節 子問研の授業観

  第五節 今,原点に立ち戻って

 第II部 障害児教育における「当事者」とは 

  第6章 「子殺し」する親も子どもの意志を担えるのか――「青い芝の会」神奈川県連合会の主張に着目して(渡邊真之)  

  第一節 愛と正義を否定する――青い芝における一九七〇年の転換点

   第二節 養護学校義務化反対運動のはじまり 

  第三節 「当事者・保護者の学校選択権」の登場 

  第四節 子どもの「自立」への捉え直しへ

  第7章 「ぼくはにんげんだ」――金井康治の就学闘争二〇〇〇日(末岡尚文)

   第一節 金井闘争とは何か 

  第二節 闘争二〇〇〇日 

  第三節 康治の意志と支援者らの応答

   第四節 人権としての普通学校就学と障害児を取り巻く関係性

 第III部 「発達」を批判し,発達にこだわる

  第8章 どの子も一緒に取り組める授業の追求――八王子養護学校における「総合的学習」(坂元秋子・柳 準相)

  第一節 八王子養護学校の歩み――創立から一九七〇年代中頃まで

  第二節 「闘う障害者」たちとの出会いと就学保障

  第三節 「総合的学習」の誕生

  第四節 「ものづくり」の学習

 第五節 生き方を学びあう「被爆のまち広島を学ぶ」

  第六節 どの子も一緒の授業とは 

 第9章 「見えない世界」をどう認識するのか――「盲児」のいる普通学級と仮説実験授業(邊見 信・佐伯拓磨)

  第一節 平林浩と高橋しのぶとの出会い 

 第二節 一学期の葛藤 

 第三節 「見えない世界」としての科学

  第四節 「ことば」で認識を形作る

  第五節 「見えない世界」をどう「見る」か――粒子のイメージ

  第六節 「盲児」が絵を描くことの意味

  第七節 「見えない世界」に発達をひらく

 第10章 共生教育運動における教師のジレンマ――大阪枚方市・宮崎隆太郎の挑戦(二見総一郎)  第一節 大阪の共生教育と宮崎隆太郎 

 第二節 「発達」の問い直し

 第三節 「ともに学ぶ」の問い直し 

 第四節 子供問題研究会からの問い

 第五節 改めて普通教育を変革すること 

 第IV部 共生教育運動によって問い直される心理学・医学・教育学 

 第11章 臨床心理学における共生共育論のゆくえ――日本臨床心理学会・学会改革運動から(石神真悠子) 

 第一節 臨床心理学における共生共育論 

  第二節 学会改革運動  第三節 養護学校義務化反対論議  第四節 学会改革の「敗退・終焉」  第12章 医学はいかに問い直されようとしたのか――学会変革の気運とその挫折(鈴木康弘) 

 第一節 医学の研究は誰のためなのか

 第二節 一九七〇年代の日本小児科学会と日本児童精神医学会 

 第三節 学会の外での共生教育運動を支えた医師たち 

 第四節 「診断理性批判」のゆくえ

 第13章 教育学における応答――少数の教育学者たちによる理論的挑戦(江口 怜)

  第一節 共生教育運動からの教育学への問い 

 第二節 日本教育学会の動向 

 第三節 数少ない応答の学問的背景

 第四節 近代公教育を超えて――岡村達雄の共生論

 第五節 教育学の臨界点で

第14章 継続する検査技術――就学時健康診断における知能検査から見えてくるもの(柏木睦月)  第一節 「排除」は現在も続いているのか

 第二節 就学時健診の概要と知能検査の位置づけ

 第三節 知能検査の実態とその変遷

 第四節 精緻化する「排除」の中に生きる

 終 章 かすかな光へ――「共生」と「発達」の緊張を引き受け続けること(小国喜弘)

  第一節 本書で明らかにしたこと

  第二節 かすかな光へ 後書き(小国喜弘)

 この大著の副題は「養護学校義務化反対をめぐる教育思想」。もっと早くにコメントすべき本だった。

 同書の存在を知った時、東京大学の研究者グループがこんな本を出したことが信じられなかった。

故持田栄一教授以外に、養護学校義務化反対の運動と思想を好意的に取り上げる研究者がいたことに驚いてしまった。

 内容に触れる前に、先ず、目次をみておきたい。すべてについて触れることはできないが、第Ⅳ部第13章「教育学における応答ー少数の教育学者たちによる理論的挑戦」は、私自身についても触れているだけでなく、尊敬する先輩だった故岡村達雄さんの思想と理論を詳細に論じているので。次回に触れることにする。


序 章 養護学校義務化反対運動が提起したこと(小国喜弘) 

 第一節 問題の所在――普通学校における排除と「共生」の模索

  第二節 先行研究の状況と本書の課題 

 第三節 本書の構成 

 第1章 障害児教育における包摂と排除――共生教育運動を分析するために(小国喜弘)

  第一節 戦後における障害児教育の本格的始動 

  第二節 障害者施設の充実と隔離 

 第三節 日本における能力主義教育政策の展開 

 第四節 全障研と全障連の対立  第五節 養護学校義務化における包摂と排除 第I部 「共生」の 教育を求めて

 第2章 大規模施設も養護学校もいらない――八木下浩一・「街に生きる」意味と就学運動(小国喜弘) 

 第一節 就学運動の始まり

  第二節 福祉施設・養護学校への拒否感情と「街に生きる」こと 

 第三節 学校体験と能力主義の壁

  第四節 養護学校義務化阻止闘争――闘争の経緯

  第五節 障害の「地域モデル」へ  第六節 改めて「街」に生きること

 第3章 なぜ「分けない」ことが大事なのか――公立中学校特殊学級教師・北村小夜の闘い(渡邊真之)  

 第一節 共生教育運動を支えた教師たち

  第二節 一緒がいいならなぜ分けた――特殊学級と交流教育の間違いに気づく

  第三節 「普通」を問う――特殊学級から学校と社会を問い直す

  第四節 「分けない」思想の現代的意義 

 第4章 「障害児」は存在しない!――がっこの会による就学時健康診断反対闘争(高橋沙希)

  第一節 「〈自閉症児〉は存在するのか」

  第二節 「就学児診断はさぼってしまいましょう」

  第三節 「おしっこはできないけどただの子です」 

 第四節 「学校を見限る」

  第五節 いま,再び問い直す――がっこの会が提起したこと

 第5章 「せめぎ合う共生」を求めて――子供問題研究会における「生き合う」関係(中田圭吾)  第一節 「子供問題研究会」の誕生――親の絶望からのスタート

  第二節 「専門家幻想」に抗って「ずぶとく賢い親に……」

  第三節 共生の原イメージとしての「せめぎ合う共生」

  第四節 子問研の授業観

  第五節 今,原点に立ち戻って

 第II部 障害児教育における「当事者」とは 

  第6章 「子殺し」する親も子どもの意志を担えるのか――「青い芝の会」神奈川県連合会の主張に着目して(渡邊真之)  

  第一節 愛と正義を否定する――青い芝における一九七〇年の転換点

   第二節 養護学校義務化反対運動のはじまり 

  第三節 「当事者・保護者の学校選択権」の登場 

  第四節 子どもの「自立」への捉え直しへ

  第7章 「ぼくはにんげんだ」――金井康治の就学闘争二〇〇〇日(末岡尚文)

   第一節 金井闘争とは何か 

  第二節 闘争二〇〇〇日 

  第三節 康治の意志と支援者らの応答

   第四節 人権としての普通学校就学と障害児を取り巻く関係性

 第III部 「発達」を批判し,発達にこだわる

  第8章 どの子も一緒に取り組める授業の追求――八王子養護学校における「総合的学習」(坂元秋子・柳 準相)

  第一節 八王子養護学校の歩み――創立から一九七〇年代中頃まで

  第二節 「闘う障害者」たちとの出会いと就学保障

  第三節 「総合的学習」の誕生

  第四節 「ものづくり」の学習

 第五節 生き方を学びあう「被爆のまち広島を学ぶ」

  第六節 どの子も一緒の授業とは 

 第9章 「見えない世界」をどう認識するのか――「盲児」のいる普通学級と仮説実験授業(邊見 信・佐伯拓磨)

  第一節 平林浩と高橋しのぶとの出会い 

 第二節 一学期の葛藤 

 第三節 「見えない世界」としての科学

  第四節 「ことば」で認識を形作る

  第五節 「見えない世界」をどう「見る」か――粒子のイメージ

  第六節 「盲児」が絵を描くことの意味

  第七節 「見えない世界」に発達をひらく

 第10章 共生教育運動における教師のジレンマ――大阪枚方市・宮崎隆太郎の挑戦(二見総一郎)  第一節 大阪の共生教育と宮崎隆太郎 

 第二節 「発達」の問い直し

 第三節 「ともに学ぶ」の問い直し 

 第四節 子供問題研究会からの問い

 第五節 改めて普通教育を変革すること 

 第IV部 共生教育運動によって問い直される心理学・医学・教育学 

 第11章 臨床心理学における共生共育論のゆくえ――日本臨床心理学会・学会改革運動から(石神真悠子) 

 第一節 臨床心理学における共生共育論 

  第二節 学会改革運動  第三節 養護学校義務化反対論議  第四節 学会改革の「敗退・終焉」  第12章 医学はいかに問い直されようとしたのか――学会変革の気運とその挫折(鈴木康弘) 

 第一節 医学の研究は誰のためなのか

 第二節 一九七〇年代の日本小児科学会と日本児童精神医学会 

 第三節 学会の外での共生教育運動を支えた医師たち 

 第四節 「診断理性批判」のゆくえ

 第13章 教育学における応答――少数の教育学者たちによる理論的挑戦(江口 怜)

  第一節 共生教育運動からの教育学への問い 

 第二節 日本教育学会の動向 

 第三節 数少ない応答の学問的背景

 第四節 近代公教育を超えて――岡村達雄の共生論

 第五節 教育学の臨界点で

第14章 継続する検査技術――就学時健康診断における知能検査から見えてくるもの(柏木睦月)  第一節 「排除」は現在も続いているのか

 第二節 就学時健診の概要と知能検査の位置づけ

 第三節 知能検査の実態とその変遷

 第四節 精緻化する「排除」の中に生きる

 終 章 かすかな光へ――「共生」と「発達」の緊張を引き受け続けること(小国喜弘)

  第一節 本書で明らかにしたこと

  第二節 かすかな光へ 後書き(小国喜弘)

 この大著の副題は「養護学校義務化反対をめぐる教育思想」。もっと早くにコメントすべき本だった。

 同書の存在を知った時、東京大学の研究者グループがこんな本を出したことが信じられなかった。

故持田栄一教授以外に、養護学校義務化反対の運動と思想を好意的に取り上げる研究者がいたことに驚いてしまった。

 内容に触れる前に、先ず、目次をみておきたい。すべてについて触れることはできないが、第Ⅳ部第13章「教育学における応答ー少数の教育学者たちによる理論的挑戦」は、私自身についても触れているだけでなく、尊敬する先輩だった故岡村達雄さんの思想と理論を詳細に論じているので。次回に触れることにする。


序 章 養護学校義務化反対運動が提起したこと(小国喜弘) 

 第一節 問題の所在――普通学校における排除と「共生」の模索

  第二節 先行研究の状況と本書の課題 

 第三節 本書の構成 

 第1章 障害児教育における包摂と排除――共生教育運動を分析するために(小国喜弘)

  第一節 戦後における障害児教育の本格的始動 

  第二節 障害者施設の充実と隔離 

 第三節 日本における能力主義教育政策の展開 

 第四節 全障研と全障連の対立  第五節 養護学校義務化における包摂と排除 第I部 「共生」の 教育を求めて

 第2章 大規模施設も養護学校もいらない――八木下浩一・「街に生きる」意味と就学運動(小国喜弘) 

 第一節 就学運動の始まり

  第二節 福祉施設・養護学校への拒否感情と「街に生きる」こと 

 第三節 学校体験と能力主義の壁

  第四節 養護学校義務化阻止闘争――闘争の経緯

  第五節 障害の「地域モデル」へ  第六節 改めて「街」に生きること

 第3章 なぜ「分けない」ことが大事なのか――公立中学校特殊学級教師・北村小夜の闘い(渡邊真之)  

 第一節 共生教育運動を支えた教師たち

  第二節 一緒がいいならなぜ分けた――特殊学級と交流教育の間違いに気づく

  第三節 「普通」を問う――特殊学級から学校と社会を問い直す

  第四節 「分けない」思想の現代的意義 

 第4章 「障害児」は存在しない!――がっこの会による就学時健康診断反対闘争(高橋沙希)

  第一節 「〈自閉症児〉は存在するのか」

  第二節 「就学児診断はさぼってしまいましょう」

  第三節 「おしっこはできないけどただの子です」 

 第四節 「学校を見限る」

  第五節 いま,再び問い直す――がっこの会が提起したこと

 第5章 「せめぎ合う共生」を求めて――子供問題研究会における「生き合う」関係(中田圭吾)  第一節 「子供問題研究会」の誕生――親の絶望からのスタート

  第二節 「専門家幻想」に抗って「ずぶとく賢い親に……」

  第三節 共生の原イメージとしての「せめぎ合う共生」

  第四節 子問研の授業観

  第五節 今,原点に立ち戻って

 第II部 障害児教育における「当事者」とは 

  第6章 「子殺し」する親も子どもの意志を担えるのか――「青い芝の会」神奈川県連合会の主張に着目して(渡邊真之)  

  第一節 愛と正義を否定する――青い芝における一九七〇年の転換点

   第二節 養護学校義務化反対運動のはじまり 

  第三節 「当事者・保護者の学校選択権」の登場 

  第四節 子どもの「自立」への捉え直しへ

  第7章 「ぼくはにんげんだ」――金井康治の就学闘争二〇〇〇日(末岡尚文)

   第一節 金井闘争とは何か 

  第二節 闘争二〇〇〇日 

  第三節 康治の意志と支援者らの応答

   第四節 人権としての普通学校就学と障害児を取り巻く関係性

 第III部 「発達」を批判し,発達にこだわる

  第8章 どの子も一緒に取り組める授業の追求――八王子養護学校における「総合的学習」(坂元秋子・柳 準相)

  第一節 八王子養護学校の歩み――創立から一九七〇年代中頃まで

  第二節 「闘う障害者」たちとの出会いと就学保障

  第三節 「総合的学習」の誕生

  第四節 「ものづくり」の学習

 第五節 生き方を学びあう「被爆のまち広島を学ぶ」

  第六節 どの子も一緒の授業とは 

 第9章 「見えない世界」をどう認識するのか――「盲児」のいる普通学級と仮説実験授業(邊見 信・佐伯拓磨)

  第一節 平林浩と高橋しのぶとの出会い 

 第二節 一学期の葛藤 

 第三節 「見えない世界」としての科学

  第四節 「ことば」で認識を形作る

  第五節 「見えない世界」をどう「見る」か――粒子のイメージ

  第六節 「盲児」が絵を描くことの意味

  第七節 「見えない世界」に発達をひらく

 第10章 共生教育運動における教師のジレンマ――大阪枚方市・宮崎隆太郎の挑戦(二見総一郎)  第一節 大阪の共生教育と宮崎隆太郎 

 第二節 「発達」の問い直し

 第三節 「ともに学ぶ」の問い直し 

 第四節 子供問題研究会からの問い

 第五節 改めて普通教育を変革すること 

 第IV部 共生教育運動によって問い直される心理学・医学・教育学 

 第11章 臨床心理学における共生共育論のゆくえ――日本臨床心理学会・学会改革運動から(石神真悠子) 

 第一節 臨床心理学における共生共育論 

  第二節 学会改革運動  第三節 養護学校義務化反対論議  第四節 学会改革の「敗退・終焉」  第12章 医学はいかに問い直されようとしたのか――学会変革の気運とその挫折(鈴木康弘) 

 第一節 医学の研究は誰のためなのか

 第二節 一九七〇年代の日本小児科学会と日本児童精神医学会 

 第三節 学会の外での共生教育運動を支えた医師たち 

 第四節 「診断理性批判」のゆくえ

 第13章 教育学における応答――少数の教育学者たちによる理論的挑戦(江口 怜)

  第一節 共生教育運動からの教育学への問い 

 第二節 日本教育学会の動向 

 第三節 数少ない応答の学問的背景

 第四節 近代公教育を超えて――岡村達雄の共生論

 第五節 教育学の臨界点で

第14章 継続する検査技術――就学時健康診断における知能検査から見えてくるもの(柏木睦月)  第一節 「排除」は現在も続いているのか

 第二節 就学時健診の概要と知能検査の位置づけ

 第三節 知能検査の実態とその変遷

 第四節 精緻化する「排除」の中に生きる

 終 章 かすかな光へ――「共生」と「発達」の緊張を引き受け続けること(小国喜弘)

  第一節 本書で明らかにしたこと

  第二節 かすかな光へ 後書き(小国喜弘)

 この大著の副題は「養護学校義務化反対をめぐる教育思想」。もっと早くにコメントすべき本だった。

 同書の存在を知った時、東京大学の研究者グループがこんな本を出したことが信じられなかった。

故持田栄一教授以外に、養護学校義務化反対の運動と思想を好意的に取り上げる研究者がいたことに驚いてしまった。

 内容に触れる前に、先ず、目次をみておきたい。すべてについて触れることはできないが、第Ⅳ部第13章「教育学における応答ー少数の教育学者たちによる理論的挑戦」は、私自身についても触れているだけでなく、尊敬する先輩だった故岡村達雄さんの思想と理論を詳細に論じているので。次回に触れることにする。


序 章 養護学校義務化反対運動が提起したこと(小国喜弘) 

 第一節 問題の所在――普通学校における排除と「共生」の模索

  第二節 先行研究の状況と本書の課題 

 第三節 本書の構成 

 第1章 障害児教育における包摂と排除――共生教育運動を分析するために(小国喜弘)

  第一節 戦後における障害児教育の本格的始動 

  第二節 障害者施設の充実と隔離 

 第三節 日本における能力主義教育政策の展開 

 第四節 全障研と全障連の対立  第五節 養護学校義務化における包摂と排除 第I部 「共生」の 教育を求めて

 第2章 大規模施設も養護学校もいらない――八木下浩一・「街に生きる」意味と就学運動(小国喜弘) 

 第一節 就学運動の始まり

  第二節 福祉施設・養護学校への拒否感情と「街に生きる」こと 

 第三節 学校体験と能力主義の壁

  第四節 養護学校義務化阻止闘争――闘争の経緯

  第五節 障害の「地域モデル」へ  第六節 改めて「街」に生きること

 第3章 なぜ「分けない」ことが大事なのか――公立中学校特殊学級教師・北村小夜の闘い(渡邊真之)  

 第一節 共生教育運動を支えた教師たち

  第二節 一緒がいいならなぜ分けた――特殊学級と交流教育の間違いに気づく

  第三節 「普通」を問う――特殊学級から学校と社会を問い直す

  第四節 「分けない」思想の現代的意義 

 第4章 「障害児」は存在しない!――がっこの会による就学時健康診断反対闘争(高橋沙希)

  第一節 「〈自閉症児〉は存在するのか」

  第二節 「就学児診断はさぼってしまいましょう」

  第三節 「おしっこはできないけどただの子です」 

 第四節 「学校を見限る」

  第五節 いま,再び問い直す――がっこの会が提起したこと

 第5章 「せめぎ合う共生」を求めて――子供問題研究会における「生き合う」関係(中田圭吾)  第一節 「子供問題研究会」の誕生――親の絶望からのスタート

  第二節 「専門家幻想」に抗って「ずぶとく賢い親に……」

  第三節 共生の原イメージとしての「せめぎ合う共生」

  第四節 子問研の授業観

  第五節 今,原点に立ち戻って

 第II部 障害児教育における「当事者」とは 

  第6章 「子殺し」する親も子どもの意志を担えるのか――「青い芝の会」神奈川県連合会の主張に着目して(渡邊真之)  

  第一節 愛と正義を否定する――青い芝における一九七〇年の転換点

   第二節 養護学校義務化反対運動のはじまり 

  第三節 「当事者・保護者の学校選択権」の登場 

  第四節 子どもの「自立」への捉え直しへ

  第7章 「ぼくはにんげんだ」――金井康治の就学闘争二〇〇〇日(末岡尚文)

   第一節 金井闘争とは何か 

  第二節 闘争二〇〇〇日 

  第三節 康治の意志と支援者らの応答

   第四節 人権としての普通学校就学と障害児を取り巻く関係性

 第III部 「発達」を批判し,発達にこだわる

  第8章 どの子も一緒に取り組める授業の追求――八王子養護学校における「総合的学習」(坂元秋子・柳 準相)

  第一節 八王子養護学校の歩み――創立から一九七〇年代中頃まで

  第二節 「闘う障害者」たちとの出会いと就学保障

  第三節 「総合的学習」の誕生

  第四節 「ものづくり」の学習

 第五節 生き方を学びあう「被爆のまち広島を学ぶ」

  第六節 どの子も一緒の授業とは 

 第9章 「見えない世界」をどう認識するのか――「盲児」のいる普通学級と仮説実験授業(邊見 信・佐伯拓磨)

  第一節 平林浩と高橋しのぶとの出会い 

 第二節 一学期の葛藤 

 第三節 「見えない世界」としての科学

  第四節 「ことば」で認識を形作る

  第五節 「見えない世界」をどう「見る」か――粒子のイメージ

  第六節 「盲児」が絵を描くことの意味

  第七節 「見えない世界」に発達をひらく

 第10章 共生教育運動における教師のジレンマ――大阪枚方市・宮崎隆太郎の挑戦(二見総一郎)  第一節 大阪の共生教育と宮崎隆太郎 

 第二節 「発達」の問い直し

 第三節 「ともに学ぶ」の問い直し 

 第四節 子供問題研究会からの問い

 第五節 改めて普通教育を変革すること 

 第IV部 共生教育運動によって問い直される心理学・医学・教育学 

 第11章 臨床心理学における共生共育論のゆくえ――日本臨床心理学会・学会改革運動から(石神真悠子) 

 第一節 臨床心理学における共生共育論 

  第二節 学会改革運動  第三節 養護学校義務化反対論議  第四節 学会改革の「敗退・終焉」  第12章 医学はいかに問い直されようとしたのか――学会変革の気運とその挫折(鈴木康弘) 

 第一節 医学の研究は誰のためなのか

 第二節 一九七〇年代の日本小児科学会と日本児童精神医学会 

 第三節 学会の外での共生教育運動を支えた医師たち 

 第四節 「診断理性批判」のゆくえ

 第13章 教育学における応答――少数の教育学者たちによる理論的挑戦(江口 怜)

  第一節 共生教育運動からの教育学への問い 

 第二節 日本教育学会の動向 

 第三節 数少ない応答の学問的背景

 第四節 近代公教育を超えて――岡村達雄の共生論

 第五節 教育学の臨界点で

第14章 継続する検査技術――就学時健康診断における知能検査から見えてくるもの(柏木睦月)  第一節 「排除」は現在も続いているのか

 第二節 就学時健診の概要と知能検査の位置づけ

 第三節 知能検査の実態とその変遷

 第四節 精緻化する「排除」の中に生きる

 終 章 かすかな光へ――「共生」と「発達」の緊張を引き受け続けること(小国喜弘)

  第一節 本書で明らかにしたこと

  第二節 かすかな光へ 後書き(小国喜弘)

読者の皆様へ 

 世界中で、教育システムを含む最も弱い立場の人々を標的とする極右(far-right)イデオロギーの、憂慮すべき急増を目の当たりにしています。教室から国家政策の議論に至るまで、苦労して勝ち取った権利が攻撃されています。偽情報(disinformation)が蔓延するにつれ、教育、そして教員の学問の自由と自律性は、戦場であると同時に、希望の光でもあります。 

 しかし、私たちは真にインクルーシブな世界を築くための闘いを決してやめません。組合の組織化、アドボカシー、支援、教育など、あらゆる手段を講じることで、真の変化を実現することができます。 

 私たちの組合は最前線に立ち、インクルーシブなカリキュラム、研究、そしてLGBTI+、先住民、恵まれない生徒や教育者の権利を守ります。私たちは民主主義社会のまさに基盤を守っています。

 私たちは平等と人権の実現に尽力し、誰もが差別や排除を恐れることなく学び、教え、成長できる環境づくりに尽力しています。すべての学習者にとって安全でインクルーシブな空間は、互いに助け合うことを可能にし、すべての生徒が真に成長できるよう支えます。 

 今回のIn Focus号では、真にインクルーシブな未来を創造するために、私たちが世界中でどのように取り組んでいるかについてご紹介します。

 

皆様の連帯を願って デイビッド・エドワーズ 

                教育インタナショナル(Education International)事務局長


  鹿児島県大隅地方の郷土史を研究しているグループのリーダーだった永井彦熊氏の論考「大隅の鴻儒九華と足利学校」(『大隅史談話 創刊号』所収)の書き起こし文章を引き続き掲載する

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九華歸國の意志

然し九華も寄る年波の繁くして故郷懐しくなったのであろう。学校は八世校主宗銀に譲り、大隅の故郷へ歸らんと発足した。時に永禄三年九華六十一歳、周易一百日の講義を終へ歸途についた。時に織田信長が駿遠参の雄   今川義元を桶狭間に破った年である。 此の事文選三十九巻末に左の如く記してある。

  九華六十一歳周易一百之会十有六度伝授

   之徒以上百人也欲赴郷梓之時云々

 とあり、此の戦国禍亂の間を歸らんとして相模の小田原を過ぐる時、太守北条氏康父子に嘱望されて六韜三略の兵法を講義した。

 父子は数旬に亘る講義を聴き九華の学の該博なるに敬意を表し可惜此人西海の果てに歸るを惜しみ、且つ又学校の後継者此の人に及ぶ者なきを嘆き、強いて歸国を思い止めしめ金沢文庫の朱版文選他数値の珍本を与へて強いて歸校を望んで子弟の尽力を願った。

 此の歸國を惜しんだ事は氏康の家臣宗甫より学校宛の文書に簡単ではあるが出ている。

  一 相続而被置学校能化大才之方無之処    此度之御歸國歎敷 被思召候事 

 二 畢竟可有御抑留之由 然御覚悟之通

    有之候可被御中止事 

       五月九日 

九華は氏康父子の懇望黙止難く遂に歸国を断念して其の贈られた金沢文庫の書籍を所持して再び教育振興に尽くした。

 足利学校蔵書栄版文選に金沢文庫の捺印あり第三九の巻末に自筆が載っている

 隅之産九華六十一歳欲赴郷梓 之時抑留次有寄進

 と標してある。

 其後孜々として学校経営の任に当り隆盛を極めたが、天正六年八月十日年七十九に歿すした。我が三州では島津貴久公歿後七年の後である。武田勝頼と信長と対陣の年で在職に二十九年であった。 

 九華の学問 

 (足利学校と学科

 足利学校は純然たる儒学の学校で上杉憲実の定めた日記に拠っても明らかである。

  三注  千字文注 古注蒙求 胡會詩注

  四書

  六経 

 列子、荘子、老子、史記、文選 他は講ず可らざるを禁ずる及ばずとある如く老荘も少しくやるが全く儒学以外には出なかったらしい。

 それは一代校主快元より九代校主閑室に至るまで学校に収蔵せる書籍を見ても明らかである。

 今蔵書の一覧を挙げて参考に資せよう。

   一、 周易注䟽(ちゅうそ)(孔頴達) 宋版二十五冊(タテ七寸二分、横五寸四分)

   一、 尚書注疏 孔頴達 宋版 上杉安房守憲実 寄進

 ・礼記正義  孔頴達  宋版 

・論 語    写本

 ・文 選  北条氏政寄進  司業九華の奥書がある  其 他 

・周 易   宋版  十三冊 ・後漢書   明版 ・古文考経  写本

 ・周 礼   宋版 ・春秋経伝抄 写本

 ・聖学心法  朝鮮版 ・史記抄   写本 

・三 略   活字本 

・周易注疏  写本 紹熙三年(一一九二)以前の刊行

  本書は陸子ぼう(陸放翁の第六子)の所蔵本であって毎冊自筆の識語がある。

  先君子手標以朱点伝之之大雪始晴 謹記 

 とある。清人徐致遠は之を見て稀世の珍宝と言っている。

 之等の本は日本には勿論支那に於ても珍籍とすべきものである。

・周易伝本 

  之などは支那には全くなく珍とすべきもの。 

・周易啓蒙通釈    古写本 

・周易啓蒙異伝    古写本  (とう序之牧)

 ・歸  蔵   写本 

  殷時代には易を歸蔵と言う。

 ・周易抄

 ・ 其 他 

・尚 書 詩類に於ては

 ・毛詩鄭箋

 ・詩伝綱領   毛詩抄 

・礼 記    古写本   鄭玄注 

  七世校主九華の訓点がある。

   巻一の卷末に左の奥書がある。 

   延徳二年(一四九〇)五月二十二日 

    建仁寺大童庵一牛蔵

     至徳二年(一三五八)六月十一日 

      以五条大外記 

    永和元年(一三七五)五月二日 

     以此本 候禁裏 御読記 

・礼記集説   元版  五冊   九華の手筆あり

 ・七書講義   十冊 

  古写本  宋施子美撰

   九華自筆の識語あり

    九冊尾に借大隅之産九益手 以印校校之 

文選は九華、氏政より戴いたものだけに九華の最も愛したものである。

 九華も氏政の誠意ある引き止めには感激したらしく一冊毎に其の理由を奥書に叙している。

 金沢文庫の墨印ある上に北条氏の名高い二寸角大の虎の印が捺している。 

毎冊の奥書は大同小異で既に前述しているが巻三十の尾を記すと。

  隅州産九華行年六十一時欲赴千郷里過相州太守 

 氏康、氏政父子聴三略後話柄之次賜之又請再住 

千謂堂 (巻三〇尾) 

此の蔵書の目録を一瞥するに、第一気付くのは易の書の多い事である。即此の学校が当時如何に易及兵書の講義に力を用いたるかは時代の反映とは言え当時戦亂の時代の人々の心理の程が窺はれる。

すでに本日5月10日の拙ブログで、この発言への最初のコメントをかいたが、彼の講演を最初からきき、あらためて追加のコメントを書くことにした。


西田議員は冒頭で次のように発言している。

「日本国憲法の公布日は11月3日、今では文化の日であるが、以前は明治節、すなわち明治天皇の誕生日である。つまり、明治憲法といわれた大日本帝国憲法をなくして、日本国憲法に振り替えた、と。まさにわざわざ明治天皇の誕生日にやっているわけで、まさにこれは占領政策そのものなんですよ。要するに、アジア唯一の独立国で憲法をもった日本をアメリカが征服して、日本人に占領されたということを象徴的に分からせるためにこの11月3日に明治憲法をつぶしたわけです。」

いやあ、事実とはまったく異なるこんな認識がまかり通り事は、許されないことである。国立国会図書館の「資料と解説」にある「4-16 新憲法の公布日をめぐる議論」では、西田議員認識とはまったく異なる説明がなされている(下線は引用者)。


「1946(昭和21)年10月29日の閣議で、日本国憲法の公布日をいつにするかが検討され、まず施行日を翌年5月3日に設定し、その日から逆算して11月3日を公布日とすることに決定した。11月3日は明治天皇の誕生日(明治節)にあたるため、GHQ側の反応について閣内には一抹の不安もあったが、この決定に対してGHQから特に異議は出されなかった。しかし、閣議での決定前に、GHQ民政局の内部には、公布日として相応しくない旨を日本国政府に非公式に助言すべきであるとの意見もあった。また、対日理事会の中華民国代表も、10月25日、アチソン対日理事会議長に書簡を送り、明治時代に日本が近隣諸国に対して2回の戦争を行ったことを挙げ、民主的な日本の基礎となる新憲法の公布を祝うため、より相応しい日を選ぶよう日本政府を説得すべきであると主張した。しかし、アチソンは、10月31日の返信で、11月3日が公布日とされたことに特に意味はなく、日本政府の決定に介入することは望ましくないと書き送った。当時法制局長官であった入江俊郎は後にこの間の経緯について記している。」

国立国会図書館は国会議員の利用で優先される図書館であるから、其の正門は国会議事堂を向いており、一般国民は利用できないようになっている。しかしながら、国会議員である西田議員はこの解説は読んでいないようだ。勉強不足も甚だしい。


                     ブルック・シュルツ著 — 2025年3月24日

https://www.edweek.org/policy-politics/nea-aft-sue-to-block-trumps-education-department-dismantling/2025/03

全米教育協会(NEA)のキム・アンダーソン事務局長は、2025年3月14日、ワシントンD.C.の米国教育省本部で行われたデモで演説した。NEAとアメリカ教員連盟(AFT)は、ドナルド・トランプ大統領による教育省解体の動きを阻止するため、訴訟を起こしている。
                            マーク・シーフェルバイン/AP  


全米二大教員組合は、ドナルド・トランプ大統領とリンダ・マクマホン教育長官による米国教育省の解体を阻止するため、法的措置を取った。マクマホン長官に対し、大統領が最近発した教育省閉鎖を促進するよう命じた大統領令は、マクマホン長官の権限を超えていると主張している。

 アメリカ教員連盟と全米教育協会によるこれらの個別の訴訟は、トランプ大統領が1月20日の就任以来、教育省の規模縮小を積極的に進めている中で、教員組合による最新の訴えとなっている。 連邦政府機関である教育省は、既に職員数で閣僚級省庁の中で最も小規模だが、大規模な人員削減と度重なる早期退職割増金提案により、4,000人を超える職員数が約半分にまで減少した。

先週、トランプ大統領はマクマホン氏に対し、省庁閉鎖を「促進」するための大統領令を発令し、即興的に、省庁の広範な職務の移転先を説明し始めた。 トランプ大統領とマクマホン氏は、省庁閉鎖については法律に従うと述べている。連邦機関を廃止する権限は議会のみにあり、そのような法案が可決するには上院で60票の賛成が必要となる。また、個々のプログラムを別の機関に移管する場合も議会の承認が必要となる。 

しかし、教員組合を含む反対派は、トランプ大統領とマクマホン氏がその権限を逸脱していると主張している。 アメリカ教員連盟(AFT)は、他の6人の原告と共に月曜日に訴訟を起こし、マサチューセッツ州の連邦裁判所に対し、トランプ大統領が3月20日に発令した大統領令と、今月初めに実施された大幅な職員削減を違法と判断するよう求めた。 

全米教育協会は他の9人の原告とともに月曜日、メリーランド州の連邦裁判所に訴状を提出し、裁判官にマクマホン氏による教育省のさらなる解体を差し止めるよう求めた。

 両者は、部署全体を廃止する大規模な人員削減によって警察が機能不全に陥り、資金や助成金の配分や公民権侵害の審査といった法的に義務付けられた機能を遂行できなくなったと主張している。これらの 苦情申し立ては、マクマホン氏と大統領は、議会の承認を得ずに教育省の機能を弱体化させることで議会の権限を逸脱していると、主張している。議会は1979年に教育省を設立したが、これはNEAが長年求めてきたことであり、大統領には撤回権限のない役職や官職を法令で創設した。 AFTの苦情申し立ては、「教育省の解体、特に省内の半数の解散は、…教育活動を停止させ、全国のっ生徒、教育者、そして学区に悪影響を及ぼす」と述べている。 

教育省の広報担当者であるマディ・ビーダーマン氏は声明で、教育省の廃止は議会と州の指導者と協議して決定されると述べた。彼女は、AFTが「アメリカ国民を欺き、アメリカの教育官僚機構への支配力を維持させている」こと、そして「教育省に訴訟に資源を浪費させている」ことを批判した。


 学区と保護者は、EDの解体は波及効果をもたらすと述べている。

 AFTの訴訟に加わったマサチューセッツ州のサマービル学区とイーストハンプトン学区は、連邦政府の資金が人件費、少人数制クラス、通学費の負担に役立っていると主張している。「タイムリーかつ予測可能な資金提供」がなければ、学区は職員やプログラムの「時期尚早な削減」を強いられると予測している。 

一方、NEAと共に苦情を申し立てた3人の親は、教育省の閉鎖とサービスの変更によって、子どもたちの教育が影響を受けると述べている。

 ある親は、教育省の差別禁止調査部門に障害者差別に関する苦情を申し立てましたが、7つの地方事務所の廃止によって調査が阻害され、教育省による違反是正が困難になるのではないかと懸念している。 

 別の親は、多言語学習者を支援する言語サービスを受けている子どもが、教育省の廃止によってそれらのサービスを受けられなくなるのではないかと懸念している。

 3人目の親であるメリーランド州の母親、マラ・グリーングラスさんは、障害のある生徒を支援する「障害のある個人のための教育法」に基づいて息子に提供されるサービスが中断されることを心配していた。

「トランプ政権による教育省の大幅な予算削減に深く心を痛めています」とグリーングラスさんは声明で述べた。「特別支援教育への資金提供と教育省による監督は、息子が、そしてこの国のすべての子どもたちが当然受けるべき質の高い教育を受けられる上で、極めて重要でした。」 


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              NEAの訴え

https://www.nea.org/nea-today/all-news-articles/why-block-grants-are-bad-news-students


1.トランプ大統領とイーロン・マスク氏が表明した「教育を州に戻す」という意向は、公教育の支持者や専門家にとって深刻な懸念事項となっている。与野党双方の政治家が反対の声を上げている。 

2.連邦政府の教育資金を、ほとんどあるいは全く監視のない一括交付金という形で州に送金することは、本来支援すべき生徒に資金が届く可能性を著しく低下させる。

3。むしろ、これらの納税者のお金は、公立学校の資金を枯渇させるバウチャー制度に流用される可能性が高く、多くの場合、既に私立学校に通う子どもを持つ裕福な家庭を利することになる。



今国会で審議されている、何とも長い名前の「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法等の一部を改正する法律案」(略:給特法一部改正)

 公立学校の教員に「残業代」を支給しない代わりに出している「教職調整額」を現在給料の4%を、来年度から1%づつ挙げ、最終的には10%にすることが改正案のメインであるが、もう一つ大きな改正事項がある。 「主務教諭」という新しい職を教員制度に位置付けるというもの。

 実はこの新しい「主務教諭」が、これまでの制度のなかでどこに位置づくのかがはっきりしなかった。いろいろ調べてみたら、次のように主幹教諭と教諭との間に設けられるという説明が多くあった。


 しかし、学校教育法では、主幹教諭と教諭とのあいだには「指導教諭」というのが規定されているのである。え?この指導教諭はどうなる?指導教諭を廃止して「主務教諭」にする? この疑問が一向に解けなかったのだが、今回の一部改正案についての説明でやっと分かったのだ。 この改正案には、実は学校教育法の一部改正も入っており、指導教諭の下に主務教諭をおくという案である。




現行では「指導教諭」は「児童の教育をつかさどり、並びに教諭その他の職員に対して、教育指導の改善及び充実のために必要な指導及び助言を行う。」教諭であるが、新たな「主務教諭」は「児童の教育等をつかさどり、及び命を受けて学校の教育活動に関し教諭その他の職員間における総合的な調整を行う」教諭となる。 もちろん、両方とも「置くことができる」職なので、指導教諭のかわりに主務教諭をおくことも可能ではあるが、教員構造を複雑にしすぎるものであり、理解できない。 そもそも、こんなに教員間に階層がある国は他にはないはずだ。


足利学校第七代庠主(しょうしゅ)となった大隅国出身の伊集院九華に関する興味深い論文がある。大隅史談話会の会誌「大隅』の第一号に寄せられた永井彦熊氏の原稿である。同誌にあった論文のコピーを鹿児島県立図書館から取り寄せたものである。古い雑誌コピーであるため判読できない文字が多々あった。その部分は?としている。

 なお今回は全文を掲載できないので、その1とする。



http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-2a5a.html 参考

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     大隅の鴻儒九華と足利学校             

                                    永井 彦熊 

 暗雲低迷―干戈寧日なかった戦国時代に於て、独り学問の命脈を保って居たのは、諸侯に於て我が三州の島津氏と安芸の大内氏とで、学問の府としては京の五山、金沢文庫と此の足利学校にすぎなかった。 然し大内氏は陶氏の為に亡され金沢文庫は当時有名無実に衰微し京の五山又振わず文華の光を妖塵の中に放ったのは、西に薩南文学あり東に足利学校あるのみであった。 然も文華一輪荒んだ戦国時代に光彩を放つ足利学校の司業(庠主、校主)が我が大隅より出てたる学者に継承され吾国戦時代の文学が実に三州の人に依って保たれしことに想到すれば転た吾人の誇りを感じ愉悦を覚えるものである。 以下九華 (老)伊集院氏について述べる事にする。 

 然し三州に於て桂庵禅師の文学的地位の大なることは既に知られている。それは前半生中央に過ごし後半生を三州に終わった関係もあろうが、三州を出でて中央及東国に名をなした九華の如き大儒が今尚否大隅の人々に知られないのは誠に遺憾の極である。 九華は明応7(1498)年、我が大隅の伊集院氏の支族に生まれた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集院氏であるから当時の大隅における伊集院は垂水か加治木か判明しないが、現在伊集院の姓の垂水方面に多いところから見て、或いは同地方であったかも知れず、或いは伊集院の姓でなかったなかったかも知れない。名は瑞古、玉崗と号する。

 足利学校の沿革

 九華を述べる前に先ず足利学校の沿革を述べなければならぬ。足利学校は栃木県足利市にあり、学校内古木と言ふ可き古木は認めないが、幾年を経て古き門がある「入徳門」と言う篇額が懸っている。儒学の門らしい感が起る。入徳門を越えてると正門に杏檀門はいつも閉ぢて特別の観覧者なきが限り開かない。左方に現在の足利市の図書館があるが、貴重図書は奥深く蔵して市長の許可なき者は閲覧を許さない。多数の国宝的貴重図書であるから一頁の汚損さえも忽せにしないのは或は無理からぬ事であるが、遠くから来た研究者の為にもっと簡易な方法を以て閲覧せしめる事は出来ないおのであろうか。    足利学校創設の起源 此の足利学校創設には二説(ママ)がある。 

第一説は上古の国学の後を引き続いて上杉憲実が補修したのではあるまいかとの説が足利学校事蹟考に現れて居る。即ち本校所蔵の古書に押印した「野之国学」の印影及上杉憲実の実状文本朝通覧に依って斯く頌頭される点もある。

 第二説は小野篁創設の説である。それは本校所蔵足利学校由緒記、同足利学校由略記、鎌倉大蔵紙、三才図会、山吹日記、醍醐記談等にある。

 第三説に、藤原秀郷の曽孫建設すと言う説があるが、国学遺制説よりも此の小野篁説の方が有力視され、殆ど確定的に見られ篁の木像等が安置してあるのを見ても此の説の有力さを物語っている。

 即ち上古国学の荒廃せるを小野篁その古跡に更に学校を創立したものと想像される。国学の置かれし年代は正史に明確にされてある通り、文部天皇大宝元年諸国に国学の制があった。それより百三十一年を過ぐる淳和天皇天長九年八月五日篁が創設し復興したので今を過ぐる一、一二〇年前であった。位置は此処でなくして毛野村大字岩井十念寺の附近になっているが、今は渡良瀬川の為に陥没して川になっている。

 それより篁の子孫遺業を継いで行ったらしいが其の間全く不明になっている。

 何故に京に居し篁がかくも東国に関係が深いか、それは篁の父岑守が下野守となって東下し時篁等は従って客遊し、且足利はその祖先の由緒の地、毛人毛野父子足利に生れ足利に住し、篁の子俊生もまた下野守として足利に居し故郷国として晩年此処に病躯を養ったと言う伝説がある。

 篁は漢学者で和歌も巧に孫の道風は文字の上手な人。わたの原八十島かけて云々の歌人口に膾炙されている。 室町時代になって貞和年中足利利基氏の関東管領となり此の足利学校の荒廃に赴くのを嘆いたが、永享十一年上杉管領たるに及んで更に之を修理し数部の巻冊を明国に求め寄贈し鎌倉円覚寺の僧、快之をもって庠主とした。

 爾後世々僧を以て学校の司業とした憲実の子憲忠、孫憲房など父祖の業を継いで兵馬倥倊(へいばこうそう:戦争のために忙しくあわただしいこと)の間にあって心を文学に尽し典籍を修収した。

 快之より七世の僧九華、之が我が三州から出た大学者で当時恐らく彼の右に出る者はなかった。

 九世校主之佶(ママ)は学は文武を兼ね家康の寵厚く書冊二百余部、木製活字数十万顆及出地百石を寄贈した。然し現在は活字は存しない。 吉宗の時、日光に参拝する途中本校の蔵書を検し、甚だ珍とし鄭重に保存せしめたが、宝暦四年(我が三州は木曽川治水工事のある年代)雷火にかかり図書旧記等消失した。 幕府は直に修理をなさしめたが、珍本奇籍等消失したのは遺憾の極みである。 明治五年足利藩より栃木県に属し、九年足利市のものとなった。  


 足利学校と三州人

  起 雲 

きに京都五山に竹居(薩)天游(隅)の如き学者を出して、衰微極まる戦国時代の文学に最初の花を咲かしめた三州は更に起雲の如き学者を出している。 日向の出身で、応仁の乱頃上京したらしい。然し京は戦乱日を継いで研讃(ママ)に不便なりし為当時名高い足利学校に来た。之が足利学校に於ける三州人の足跡の第一である。然し起雲の作も事歴も委しくは判明せず只日向とのみあるのと起雲丈人を送ると言う漆涌万里の詩の序等に依って推察する他に途がない。 総て三州出身の学者は只国名ばかり判明してその事歴及作品等が残っていないので、当時交游せし友人子弟等詩賦等よりその半面を察するより他はない。 

  日州之起雲丈人 負笈於関左 

 十有星霜 拾紅螢而続?之労 

 使髺有両色

 即ち二十五、六歳にて東游して十四年両?は霜を飾らんとする時まで十余年一日の如く螢?の労を重ねた。学なりて帰国の途次文明七年当時江戸にいた万里を訪ねた。其時の万里の歌に 

  関左留鞋十四年 山看富士水隅田 

 角声昨夜俄吹起 一別送君梅以前 

 転句の角声昨夜云々は唐詩の七絶の詩そのままであるが、起雲を惜しむ別れの情が現れて いる。よく此の地方の人々は梅花を賦しているが、梅花は当時桜花より美しく又香があっ た為であろう。固陰厳しき時花の雲のように見える梅林の趣は又此の地方ならでは見られ ない風情である。

  天 府

 丁度同時代に天府が居た事が漆涌万里の詩序に依って明かである。天府は薩摩の人である。   薩州之天府老人 挟笈東游 余嘗   邂逅武蔵江戸城 とあり。太田資康の館に会っている。年齢も判然としないが老人とあるからには相当な年配であろう。

兎角三州より来游した人々は、起雲にしろ、天府にせよ、後述の九華にせよ、三十前後の時出郷したらしい。之は最もな事で、国に学問を求めて満足し得ず、外い求めんと出発したもので研鑽幾十年、帰る時は大抵繁霜を帯びて帰国している

   鶴 翁 

三州人ではないが関係深い琉球僧である。初め京の東福寺に来て彭叔禅師に従学し後学校に入学し六世文伯に師事した。内地に居ること十三年、天文六年足利より京に入り、彭叔に辞謝して国に帰った。其の時の詩があるが略する。

   天 濢

 名は崇春、日向飫肥の人である。初め桂庵禅師の門人雲夢に師事したが、大永七年年十九笈を負うて足利学校に入り六世文伯に学ぶこと五、六年、時に名を不閑と改む。後越前にて十余年四十九歳にて帰国し西光寺に住す。薩南文学の俊才南浦文之は幼時此の人の弟子である。   湯 岑 名は長温日向大光寺の僧である。六代校主の文伯に師事する事十年、天文十五年辞して帰国した。

  玉 仲 

之も日向の人である。六世文伯か七世九華に師事したものらしいが確然としない。小早川隆景の師となった。隆景の心境に影響した点は大である。 

  九 華

 仲翁、起雲、天府等、学校に学んだ学者の多い中で独り燦然と輝き我が三州人のために万丈の気を吐いて此の時代のとして不滅の光を放つものは九華である。


   九華の出生

 九華は明応七年(一四九九 ママ)我が大隅の伊集院氏の支族に生れた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集は垂水か加治木が判明しないが、現在伊集院の姓は垂水方面に多い処から見て或は同地方えあったかも知れ或は伊集院の姓ではなかったかも知れない。

 名は瑞古、玉崗と号する。 

丁度足利将軍は十一代義澄の時朝倉の族越前に勢力を張らんとする頃に西海に出生した。郷里に於ての行為は全く不明であり研究も余地があるが、享禄四年頃(一五三一)か天文元年(一五三二)、九華三十四、五才の時笈を負うて東上した。既に九華の生るる頃は先輩の起雲は没し天府も又無かったが、足利学校の声名は当時戦国時代に於て文学の府として全国に響いていたのである。

 既に国に於て研学した九華は学校に於ても其の鋭角を現し早くも三、四年にして天文六年三十八歳の時学校に選ばれて一年間京都の東福寺善恵軒に寓して修禅した。元来足利学校は純学問の府であるが一世頌主快元以下各僧いずれも儒仏混同の臭いがした。 之は当時の支那に於ても儒教の中に仏教が含まれ、学者は僧もあり仏教い通じる者が多かった。 当時の善恵軒主彭叔禅師の猶如昨夢集の詩を引来すれば 

   関左有僧与云 夙於郷校 雖立勧業之功

   猶為不矣 今慈丁酉暮春 掛錫乎我善

   惠之小軒 可謂学精干勤

  予卒綴八七言一章

不遠関東千里大 寄生 殻王炊烟

 何唯同人儒兼老 只来参詩又禅

 扶杖眺望士峰高 煮茶今酌惠山泉

 勉 此地又村校 夜雨青灯約十年 

 

 詩序中古と言うのは瑞古にして九華の事で、関左と言うのは逢坂の関以東を言ったのだろう。

 此の詩は賢甫及哲(未詳)の三人に贈った詩であるけれども三人の中の首席たる九華の事を主として作った事は勿論である。

 彭叔の賞辞であるが儒、仏に亘った九華の学問は該博であったに違いない。

 一年研鑽の功あり東に帰らんとする時に彭叔送るの詩がある。


  九華老衲 随賢甫  遠関東之郷梓  於是 

 詩以餞其行色云 

  五経聞説久幡胸 歴一年帰意濃 

  貧聴東関村校雨 莫忘惠日寺楼鐘 


 三十九初老に近いから九華老衲と言ったのかも知れない。即ち別れの情緒豊かなるが詩に籠っている。

  九華の人物

 京都より帰って十余年九華の声望日々厚きを加え天文十九年六世 主文伯が寂して其の後を継いだ時に五十一歳であった。九華の学問に孜々として倦まざりしは三十五、六才にて東游せしにてんも知る可く、之に加うるに人格高潔にして学識博く為に学徒四方より集り来り門弟実に三千人、その盛況前後鳴く北は奥州方面より南は九州の果てまで至らざるはなく、天叟、熙春、真瑞、乾室、蛮宿、英文、九世閑室十世龍派、要法寺の日性、天台の天海等高弟が雲の如く輩出したが、我が三州よりも承直(日向)、以継(薩摩)、文苑(同)、九益(大隅)著名の士があった。

 殊に生徒を指導することの手厚かった点、各個別に指導せし点などは現今の個性指導と同じく学生不解の字又は語ある時は紙に記して学校庭前の松の木の樹幹又は樹枝に貼れば九華は毎日其の解答を懇切に貼紙の傍に書くのを例としていた。故に当時の人々は此の松を字降の松と名づけていた。現存している松は其の子孫だと言う。

 何千の生徒中其の重だった人々を指導するにしても大変である。人が違えば質問も様々である。それを面倒とも思わず丁寧に指導する真摯なる態度は教育者の模範とせねばならぬ。其の説くや微に入り細に亘って説明した。弟子の熈春が周易の講を感謝したる詩の序に、天正十二年八月十日、九華の七回忌辰の詩序の一句に、聞講周易 十旬而終之恩義大哉と言ひ、又、徳香不改七梅花 と七絶の結句に賦して徳を慕うているのを見れば死後七年愈々学徳の光耀せしを知る。

 其の学識深く人格高潔にして学校殷賑一世に秀でていたことは、当時学敵、京五山派の如何に懼れたかは耆叔宿彭 の詩にても知る可く

  癸丑之歳予有招熈春首座之野作 

 学校老師九華次其韻 賜一章

  後日不聞鴻恩 因而不能再和 多罪多罪 

 今茲乙卯熈老歸京於是乎 有僧入関左

 不堪躍 遂前韻 ??一絶以

 奉答千机下 云 

 師翁立学在東方 孔日 回猶(不明)

 白髪□□齢六十 靑衿着了侍灯光


 癸丑は天文二十二年、熈春は九華の高弟にして東福寺の僧である。 此の詩は彭叙が九華の門に入っている熈春を招師せる詩に九華が和韻して贈れる詩を見熈春が歸山後再和して贈れる詩せあるが、惜しむらくは九華の詩秩亡して伝わらず、此の詩によって察するに如何に尊敬し敬意を表しているかの一面が偲ばれる。

 同じく五山の僧巣雪が鎌倉に来たりし時の詩を見るに 

  自鎌倉 寄九華 詩 

  九華山容名字新 思量学者仰之 

  桃紅 李白薔薇紫 東魯 春風属一人

 学者仰いで臻り紅白とりどりの花は一人を慕って集まる如何に崇望されたかが察せられる。