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大隅の鴻儒九華と足利学校
永井 彦熊
暗雲低迷―干戈寧日なかった戦国時代に於て、独り学問の命脈を保って居たのは、諸侯に於て我が三州の島津氏と安芸の大内氏とで、学問の府としては京の五山、金沢文庫と此の足利学校にすぎなかった。
然し大内氏は陶氏の為に亡され金沢文庫は当時有名無実に衰微し京の五山又振わず文華の光を妖塵の中に放ったのは、西に薩南文学あり東に足利学校あるのみであった。
然も文華一輪荒んだ戦国時代に光彩を放つ足利学校の司業(庠主、校主)が我が大隅より出てたる学者に継承され吾国戦時代の文学が実に三州の人に依って保たれしことに想到すれば転た吾人の誇りを感じ愉悦を覚えるものである。
以下九華 (老)伊集院氏について述べる事にする。
然し三州に於て桂庵禅師の文学的地位の大なることは既に知られている。それは前半生中央に過ごし後半生を三州に終わった関係もあろうが、三州を出でて中央及東国に名をなした九華の如き大儒が今尚否大隅の人々に知られないのは誠に遺憾の極である。
九華は明応7(1498)年、我が大隅の伊集院氏の支族に生まれた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集院氏であるから当時の大隅における伊集院は垂水か加治木か判明しないが、現在伊集院の姓の垂水方面に多いところから見て、或いは同地方であったかも知れず、或いは伊集院の姓でなかったなかったかも知れない。名は瑞古、玉崗と号する。
足利学校の沿革
九華を述べる前に先ず足利学校の沿革を述べなければならぬ。足利学校は栃木県足利市にあり、学校内古木と言ふ可き古木は認めないが、幾年を経て古き門がある「入徳門」と言う篇額が懸っている。儒学の門らしい感が起る。入徳門を越えてると正門に杏檀門はいつも閉ぢて特別の観覧者なきが限り開かない。左方に現在の足利市の図書館があるが、貴重図書は奥深く蔵して市長の許可なき者は閲覧を許さない。多数の国宝的貴重図書であるから一頁の汚損さえも忽せにしないのは或は無理からぬ事であるが、遠くから来た研究者の為にもっと簡易な方法を以て閲覧せしめる事は出来ないおのであろうか。
足利学校創設の起源
此の足利学校創設には二説(ママ)がある。
第一説は上古の国学の後を引き続いて上杉憲実が補修したのではあるまいかとの説が足利学校事蹟考に現れて居る。即ち本校所蔵の古書に押印した「野之国学」の印影及上杉憲実の実状文本朝通覧に依って斯く頌頭される点もある。
第二説は小野篁創設の説である。それは本校所蔵足利学校由緒記、同足利学校由略記、鎌倉大蔵紙、三才図会、山吹日記、醍醐記談等にある。
第三説に、藤原秀郷の曽孫建設すと言う説があるが、国学遺制説よりも此の小野篁説の方が有力視され、殆ど確定的に見られ篁の木像等が安置してあるのを見ても此の説の有力さを物語っている。
即ち上古国学の荒廃せるを小野篁その古跡に更に学校を創立したものと想像される。国学の置かれし年代は正史に明確にされてある通り、文部天皇大宝元年諸国に国学の制があった。それより百三十一年を過ぐる淳和天皇天長九年八月五日篁が創設し復興したので今を過ぐる一、一二〇年前であった。位置は此処でなくして毛野村大字岩井十念寺の附近になっているが、今は渡良瀬川の為に陥没して川になっている。
それより篁の子孫遺業を継いで行ったらしいが其の間全く不明になっている。
何故に京に居し篁がかくも東国に関係が深いか、それは篁の父岑守が下野守となって東下し時篁等は従って客遊し、且足利はその祖先の由緒の地、毛人毛野父子足利に生れ足利に住し、篁の子俊生もまた下野守として足利に居し故郷国として晩年此処に病躯を養ったと言う伝説がある。
篁は漢学者で和歌も巧に孫の道風は文字の上手な人。わたの原八十島かけて云々の歌人口に膾炙されている。
室町時代になって貞和年中足利利基氏の関東管領となり此の足利学校の荒廃に赴くのを嘆いたが、永享十一年上杉管領たるに及んで更に之を修理し数部の巻冊を明国に求め寄贈し鎌倉円覚寺の僧、快之をもって庠主とした。
爾後世々僧を以て学校の司業とした憲実の子憲忠、孫憲房など父祖の業を継いで兵馬倥倊(へいばこうそう:戦争のために忙しくあわただしいこと)の間にあって心を文学に尽し典籍を修収した。
快之より七世の僧九華、之が我が三州から出た大学者で当時恐らく彼の右に出る者はなかった。
九世校主之佶(ママ)は学は文武を兼ね家康の寵厚く書冊二百余部、木製活字数十万顆及出地百石を寄贈した。然し現在は活字は存しない。
吉宗の時、日光に参拝する途中本校の蔵書を検し、甚だ珍とし鄭重に保存せしめたが、宝暦四年(我が三州は木曽川治水工事のある年代)雷火にかかり図書旧記等消失した。
幕府は直に修理をなさしめたが、珍本奇籍等消失したのは遺憾の極みである。
明治五年足利藩より栃木県に属し、九年足利市のものとなった。
足利学校と三州人
起 雲
?きに京都五山に竹居(薩)天游(隅)の如き学者を出して、衰微極まる戦国時代の文学に最初の花を咲かしめた三州は更に起雲の如き学者を出している。
日向の出身で、応仁の乱頃上京したらしい。然し京は戦乱日を継いで研讃(ママ)に不便なりし為当時名高い足利学校に来た。之が足利学校に於ける三州人の足跡の第一である。然し起雲の作も事歴も委しくは判明せず只日向とのみあるのと起雲丈人を送ると言う漆涌万里の詩の序等に依って推察する他に途がない。
総て三州出身の学者は只国名ばかり判明してその事歴及作品等が残っていないので、当時交游せし友人子弟等詩賦等よりその半面を察するより他はない。
日州之起雲丈人 負笈於関左
十有星霜 拾紅螢而続?之労
使髺有両色
即ち二十五、六歳にて東游して十四年両?は霜を飾らんとする時まで十余年一日の如く螢?の労を重ねた。学なりて帰国の途次文明七年当時江戸にいた万里を訪ねた。其時の万里の歌に
関左留鞋十四年 山看富士水隅田
角声昨夜俄吹起 一別送君梅以前
転句の角声昨夜云々は唐詩の七絶の詩そのままであるが、起雲を惜しむ別れの情が現れて
いる。よく此の地方の人々は梅花を賦しているが、梅花は当時桜花より美しく又香があっ
た為であろう。固陰厳しき時花の雲のように見える梅林の趣は又此の地方ならでは見られ
ない風情である。
天 府
丁度同時代に天府が居た事が漆涌万里の詩序に依って明かである。天府は薩摩の人である。
薩州之天府老人 挟笈東游 余嘗
邂逅武蔵江戸城
とあり。太田資康の館に会っている。年齢も判然としないが老人とあるからには相当な年配であろう。
兎角三州より来游した人々は、起雲にしろ、天府にせよ、後述の九華にせよ、三十前後の時出郷したらしい。之は最もな事で、国に学問を求めて満足し得ず、外い求めんと出発したもので研鑽幾十年、帰る時は大抵繁霜を帯びて帰国している。
鶴 翁
三州人ではないが関係深い琉球僧である。初め京の東福寺に来て彭叔禅師に従学し後学校に入学し六世文伯に師事した。内地に居ること十三年、天文六年足利より京に入り、彭叔に辞謝して国に帰った。其の時の詩があるが略する。
天 濢
名は崇春、日向飫肥の人である。初め桂庵禅師の門人雲夢に師事したが、大永七年年十九笈を負うて足利学校に入り六世文伯に学ぶこと五、六年、時に名を不閑と改む。後越前にて十余年四十九歳にて帰国し西光寺に住す。薩南文学の俊才南浦文之は幼時此の人の弟子である。
湯 岑
名は長温日向大光寺の僧である。六代校主の文伯に師事する事十年、天文十五年辞して帰国した。
玉 仲
之も日向の人である。六世文伯か七世九華に師事したものらしいが確然としない。小早川隆景の師となった。隆景の心境に影響した点は大である。
九 華
仲翁、起雲、天府等、学校に学んだ学者の多い中で独り燦然と輝き我が三州人のために万丈の気を吐いて此の時代のとして不滅の光を放つものは九華である。
九華の出生
九華は明応七年(一四九九 ママ)我が大隅の伊集院氏の支族に生れた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集は垂水か加治木が判明しないが、現在伊集院の姓は垂水方面に多い処から見て或は同地方えあったかも知れ或は伊集院の姓ではなかったかも知れない。
名は瑞古、玉崗と号する。
丁度足利将軍は十一代義澄の時朝倉の族越前に勢力を張らんとする頃に西海に出生した。郷里に於ての行為は全く不明であり研究も余地があるが、享禄四年頃(一五三一)か天文元年(一五三二)、九華三十四、五才の時笈を負うて東上した。既に九華の生るる頃は先輩の起雲は没し天府も又無かったが、足利学校の声名は当時戦国時代に於て文学の府として全国に響いていたのである。
既に国に於て研学した九華は学校に於ても其の鋭角を現し早くも三、四年にして天文六年三十八歳の時学校に選ばれて一年間京都の東福寺善恵軒に寓して修禅した。元来足利学校は純学問の府であるが一世頌主快元以下各僧いずれも儒仏混同の臭いがした。
之は当時の支那に於ても儒教の中に仏教が含まれ、学者は僧もあり仏教い通じる者が多かった。
当時の善恵軒主彭叔禅師の猶如昨夢集の詩を引来すれば
関左有僧与云 夙於郷校 雖立勧業之功
猶為不矣 今慈丁酉暮春 掛錫乎我善
惠之小軒 可謂学精干勤
予卒綴八七言一章
不遠関東千里大 寄生 殻王炊烟
何唯同人儒兼老 只?来参詩又禅
扶杖眺望士峰高 煮茶今酌惠山泉
勉 此地又村校 夜雨青灯約十年
詩序中古と言うのは瑞古にして九華の事で、関左と言うのは逢坂の関以東を言ったのだろう。
此の詩は賢甫及哲(未詳)の三人に贈った詩であるけれども三人の中の首席たる九華の事を主として作った事は勿論である。
彭叔の賞辞であるが儒、仏に亘った九華の学問は該博であったに違いない。
一年研鑽の功あり東に帰らんとする時に彭叔送るの詩がある。
九華老衲 随賢甫 遠関東之郷梓 於是
詩以餞其行色云
五経聞説久幡胸 歴一年帰意濃
貧聴東関村校雨 莫忘惠日寺楼鐘
三十九初老に近いから九華老衲と言ったのかも知れない。即ち別れの情緒豊かなるが詩に籠っている。
九華の人物
京都より帰って十余年九華の声望日々厚きを加え天文十九年六世 主文伯が寂して其の後を継いだ時に五十一歳であった。九華の学問に孜々として倦まざりしは三十五、六才にて東游せしにてんも知る可く、之に加うるに人格高潔にして学識博く為に学徒四方より集り来り門弟実に三千人、その盛況前後鳴く北は奥州方面より南は九州の果てまで至らざるはなく、天叟、熙春、真瑞、乾室、蛮宿、英文、九世閑室十世龍派、要法寺の日性、天台の天海等高弟が雲の如く輩出したが、我が三州よりも承直(日向)、以継(薩摩)、文苑(同)、九益(大隅)著名の士があった。
殊に生徒を指導することの手厚かった点、各個別に指導せし点などは現今の個性指導と同じく学生不解の字又は語ある時は紙に記して学校庭前の松の木の樹幹又は樹枝に貼れば九華は毎日其の解答を懇切に貼紙の傍に書くのを例としていた。故に当時の人々は此の松を字降の松と名づけていた。現存している松は其の子孫だと言う。
何千の生徒中其の重だった人々を指導するにしても大変である。人が違えば質問も様々である。それを面倒とも思わず丁寧に指導する真摯なる態度は教育者の模範とせねばならぬ。其の説くや微に入り細に亘って説明した。弟子の熈春が周易の講を感謝したる詩の序に、天正十二年八月十日、九華の七回忌辰の詩序の一句に、聞講周易 十旬而終之恩義大哉と言ひ、又、徳香不改七梅花 と七絶の結句に賦して徳を慕うているのを見れば死後七年愈々学徳の光耀せしを知る。
其の学識深く人格高潔にして学校殷賑一世に秀でていたことは、当時学敵、京五山派の如何に懼れたかは耆叔宿彭 の詩にても知る可く
癸丑之歳予有招熈春首座之野作
学校老師九華次其韻 賜一章
後日不聞鴻恩 因而不能再和 多罪多罪
今茲乙卯熈老歸京於是乎 有僧入関左
不堪?躍 遂?前韻 ??一絶以
奉答千机下 云
師翁立学在東方 孔日 回猶□(不明)
白髪□□齢六十 靑衿着了侍灯光
癸丑は天文二十二年、熈春は九華の高弟にして東福寺の僧である。
此の詩は彭叙が九華の門に入っている熈春を招師せる詩に九華が和韻して贈れる詩を見熈春が歸山後再和して贈れる詩せあるが、惜しむらくは九華の詩秩亡して伝わらず、此の詩によって察するに如何に尊敬し敬意を表しているかの一面が偲ばれる。
同じく五山の僧巣雪が鎌倉に来たりし時の詩を見るに
自鎌倉 寄九華 詩
九華山容名字新 思量学者仰之
桃紅 李白薔薇紫 東魯 春風属一人
学者仰いで臻り紅白とりどりの花は一人を慕って集まる如何に崇望されたかが察せられる。