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今国会で審議されている、何とも長い名前の「公立の義務教育諸学校等の教育職員の給与等に関する特別措置法等の一部を改正する法律案」(略:給特法一部改正)

 公立学校の教員に「残業代」を支給しない代わりに出している「教職調整額」を現在給料の4%を、来年度から1%づつ挙げ、最終的には10%にすることが改正案のメインであるが、もう一つ大きな改正事項がある。 「主務教諭」という新しい職を教員制度に位置付けるというもの。

 実はこの新しい「主務教諭」が、これまでの制度のなかでどこに位置づくのかがはっきりしなかった。いろいろ調べてみたら、次のように主幹教諭と教諭との間に設けられるという説明が多くあった。


 しかし、学校教育法では、主幹教諭と教諭とのあいだには「指導教諭」というのが規定されているのである。え?この指導教諭はどうなる?指導教諭を廃止して「主務教諭」にする? この疑問が一向に解けなかったのだが、今回の一部改正案についての説明でやっと分かったのだ。 この改正案には、実は学校教育法の一部改正も入っており、指導教諭の下に主務教諭をおくという案である。




現行では「指導教諭」は「児童の教育をつかさどり、並びに教諭その他の職員に対して、教育指導の改善及び充実のために必要な指導及び助言を行う。」教諭であるが、新たな「主務教諭」は「児童の教育等をつかさどり、及び命を受けて学校の教育活動に関し教諭その他の職員間における総合的な調整を行う」教諭となる。 もちろん、両方とも「置くことができる」職なので、指導教諭のかわりに主務教諭をおくことも可能ではあるが、教員構造を複雑にしすぎるものであり、理解できない。 そもそも、こんなに教員間に階層がある国は他にはないはずだ。


足利学校第七代庠主(しょうしゅ)となった大隅国出身の伊集院九華に関する興味深い論文がある。大隅史談話会の会誌「大隅』の第一号に寄せられた永井彦熊氏の原稿である。同誌にあった論文のコピーを鹿児島県立図書館から取り寄せたものである。古い雑誌コピーであるため判読できない文字が多々あった。その部分は?としている。

 なお今回は全文を掲載できないので、その1とする。



http://kamodoku.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-2a5a.html 参考

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     大隅の鴻儒九華と足利学校             

                                    永井 彦熊 

 暗雲低迷―干戈寧日なかった戦国時代に於て、独り学問の命脈を保って居たのは、諸侯に於て我が三州の島津氏と安芸の大内氏とで、学問の府としては京の五山、金沢文庫と此の足利学校にすぎなかった。 然し大内氏は陶氏の為に亡され金沢文庫は当時有名無実に衰微し京の五山又振わず文華の光を妖塵の中に放ったのは、西に薩南文学あり東に足利学校あるのみであった。 然も文華一輪荒んだ戦国時代に光彩を放つ足利学校の司業(庠主、校主)が我が大隅より出てたる学者に継承され吾国戦時代の文学が実に三州の人に依って保たれしことに想到すれば転た吾人の誇りを感じ愉悦を覚えるものである。 以下九華 (老)伊集院氏について述べる事にする。 

 然し三州に於て桂庵禅師の文学的地位の大なることは既に知られている。それは前半生中央に過ごし後半生を三州に終わった関係もあろうが、三州を出でて中央及東国に名をなした九華の如き大儒が今尚否大隅の人々に知られないのは誠に遺憾の極である。 九華は明応7(1498)年、我が大隅の伊集院氏の支族に生まれた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集院氏であるから当時の大隅における伊集院は垂水か加治木か判明しないが、現在伊集院の姓の垂水方面に多いところから見て、或いは同地方であったかも知れず、或いは伊集院の姓でなかったなかったかも知れない。名は瑞古、玉崗と号する。

 足利学校の沿革

 九華を述べる前に先ず足利学校の沿革を述べなければならぬ。足利学校は栃木県足利市にあり、学校内古木と言ふ可き古木は認めないが、幾年を経て古き門がある「入徳門」と言う篇額が懸っている。儒学の門らしい感が起る。入徳門を越えてると正門に杏檀門はいつも閉ぢて特別の観覧者なきが限り開かない。左方に現在の足利市の図書館があるが、貴重図書は奥深く蔵して市長の許可なき者は閲覧を許さない。多数の国宝的貴重図書であるから一頁の汚損さえも忽せにしないのは或は無理からぬ事であるが、遠くから来た研究者の為にもっと簡易な方法を以て閲覧せしめる事は出来ないおのであろうか。    足利学校創設の起源 此の足利学校創設には二説(ママ)がある。 

第一説は上古の国学の後を引き続いて上杉憲実が補修したのではあるまいかとの説が足利学校事蹟考に現れて居る。即ち本校所蔵の古書に押印した「野之国学」の印影及上杉憲実の実状文本朝通覧に依って斯く頌頭される点もある。

 第二説は小野篁創設の説である。それは本校所蔵足利学校由緒記、同足利学校由略記、鎌倉大蔵紙、三才図会、山吹日記、醍醐記談等にある。

 第三説に、藤原秀郷の曽孫建設すと言う説があるが、国学遺制説よりも此の小野篁説の方が有力視され、殆ど確定的に見られ篁の木像等が安置してあるのを見ても此の説の有力さを物語っている。

 即ち上古国学の荒廃せるを小野篁その古跡に更に学校を創立したものと想像される。国学の置かれし年代は正史に明確にされてある通り、文部天皇大宝元年諸国に国学の制があった。それより百三十一年を過ぐる淳和天皇天長九年八月五日篁が創設し復興したので今を過ぐる一、一二〇年前であった。位置は此処でなくして毛野村大字岩井十念寺の附近になっているが、今は渡良瀬川の為に陥没して川になっている。

 それより篁の子孫遺業を継いで行ったらしいが其の間全く不明になっている。

 何故に京に居し篁がかくも東国に関係が深いか、それは篁の父岑守が下野守となって東下し時篁等は従って客遊し、且足利はその祖先の由緒の地、毛人毛野父子足利に生れ足利に住し、篁の子俊生もまた下野守として足利に居し故郷国として晩年此処に病躯を養ったと言う伝説がある。

 篁は漢学者で和歌も巧に孫の道風は文字の上手な人。わたの原八十島かけて云々の歌人口に膾炙されている。 室町時代になって貞和年中足利利基氏の関東管領となり此の足利学校の荒廃に赴くのを嘆いたが、永享十一年上杉管領たるに及んで更に之を修理し数部の巻冊を明国に求め寄贈し鎌倉円覚寺の僧、快之をもって庠主とした。

 爾後世々僧を以て学校の司業とした憲実の子憲忠、孫憲房など父祖の業を継いで兵馬倥倊(へいばこうそう:戦争のために忙しくあわただしいこと)の間にあって心を文学に尽し典籍を修収した。

 快之より七世の僧九華、之が我が三州から出た大学者で当時恐らく彼の右に出る者はなかった。

 九世校主之佶(ママ)は学は文武を兼ね家康の寵厚く書冊二百余部、木製活字数十万顆及出地百石を寄贈した。然し現在は活字は存しない。 吉宗の時、日光に参拝する途中本校の蔵書を検し、甚だ珍とし鄭重に保存せしめたが、宝暦四年(我が三州は木曽川治水工事のある年代)雷火にかかり図書旧記等消失した。 幕府は直に修理をなさしめたが、珍本奇籍等消失したのは遺憾の極みである。 明治五年足利藩より栃木県に属し、九年足利市のものとなった。  


 足利学校と三州人

  起 雲 

きに京都五山に竹居(薩)天游(隅)の如き学者を出して、衰微極まる戦国時代の文学に最初の花を咲かしめた三州は更に起雲の如き学者を出している。 日向の出身で、応仁の乱頃上京したらしい。然し京は戦乱日を継いで研讃(ママ)に不便なりし為当時名高い足利学校に来た。之が足利学校に於ける三州人の足跡の第一である。然し起雲の作も事歴も委しくは判明せず只日向とのみあるのと起雲丈人を送ると言う漆涌万里の詩の序等に依って推察する他に途がない。 総て三州出身の学者は只国名ばかり判明してその事歴及作品等が残っていないので、当時交游せし友人子弟等詩賦等よりその半面を察するより他はない。 

  日州之起雲丈人 負笈於関左 

 十有星霜 拾紅螢而続?之労 

 使髺有両色

 即ち二十五、六歳にて東游して十四年両?は霜を飾らんとする時まで十余年一日の如く螢?の労を重ねた。学なりて帰国の途次文明七年当時江戸にいた万里を訪ねた。其時の万里の歌に 

  関左留鞋十四年 山看富士水隅田 

 角声昨夜俄吹起 一別送君梅以前 

 転句の角声昨夜云々は唐詩の七絶の詩そのままであるが、起雲を惜しむ別れの情が現れて いる。よく此の地方の人々は梅花を賦しているが、梅花は当時桜花より美しく又香があっ た為であろう。固陰厳しき時花の雲のように見える梅林の趣は又此の地方ならでは見られ ない風情である。

  天 府

 丁度同時代に天府が居た事が漆涌万里の詩序に依って明かである。天府は薩摩の人である。   薩州之天府老人 挟笈東游 余嘗   邂逅武蔵江戸城 とあり。太田資康の館に会っている。年齢も判然としないが老人とあるからには相当な年配であろう。

兎角三州より来游した人々は、起雲にしろ、天府にせよ、後述の九華にせよ、三十前後の時出郷したらしい。之は最もな事で、国に学問を求めて満足し得ず、外い求めんと出発したもので研鑽幾十年、帰る時は大抵繁霜を帯びて帰国している

   鶴 翁 

三州人ではないが関係深い琉球僧である。初め京の東福寺に来て彭叔禅師に従学し後学校に入学し六世文伯に師事した。内地に居ること十三年、天文六年足利より京に入り、彭叔に辞謝して国に帰った。其の時の詩があるが略する。

   天 濢

 名は崇春、日向飫肥の人である。初め桂庵禅師の門人雲夢に師事したが、大永七年年十九笈を負うて足利学校に入り六世文伯に学ぶこと五、六年、時に名を不閑と改む。後越前にて十余年四十九歳にて帰国し西光寺に住す。薩南文学の俊才南浦文之は幼時此の人の弟子である。   湯 岑 名は長温日向大光寺の僧である。六代校主の文伯に師事する事十年、天文十五年辞して帰国した。

  玉 仲 

之も日向の人である。六世文伯か七世九華に師事したものらしいが確然としない。小早川隆景の師となった。隆景の心境に影響した点は大である。 

  九 華

 仲翁、起雲、天府等、学校に学んだ学者の多い中で独り燦然と輝き我が三州人のために万丈の気を吐いて此の時代のとして不滅の光を放つものは九華である。


   九華の出生

 九華は明応七年(一四九九 ママ)我が大隅の伊集院氏の支族に生れた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集は垂水か加治木が判明しないが、現在伊集院の姓は垂水方面に多い処から見て或は同地方えあったかも知れ或は伊集院の姓ではなかったかも知れない。

 名は瑞古、玉崗と号する。 

丁度足利将軍は十一代義澄の時朝倉の族越前に勢力を張らんとする頃に西海に出生した。郷里に於ての行為は全く不明であり研究も余地があるが、享禄四年頃(一五三一)か天文元年(一五三二)、九華三十四、五才の時笈を負うて東上した。既に九華の生るる頃は先輩の起雲は没し天府も又無かったが、足利学校の声名は当時戦国時代に於て文学の府として全国に響いていたのである。

 既に国に於て研学した九華は学校に於ても其の鋭角を現し早くも三、四年にして天文六年三十八歳の時学校に選ばれて一年間京都の東福寺善恵軒に寓して修禅した。元来足利学校は純学問の府であるが一世頌主快元以下各僧いずれも儒仏混同の臭いがした。 之は当時の支那に於ても儒教の中に仏教が含まれ、学者は僧もあり仏教い通じる者が多かった。 当時の善恵軒主彭叔禅師の猶如昨夢集の詩を引来すれば 

   関左有僧与云 夙於郷校 雖立勧業之功

   猶為不矣 今慈丁酉暮春 掛錫乎我善

   惠之小軒 可謂学精干勤

  予卒綴八七言一章

不遠関東千里大 寄生 殻王炊烟

 何唯同人儒兼老 只来参詩又禅

 扶杖眺望士峰高 煮茶今酌惠山泉

 勉 此地又村校 夜雨青灯約十年 

 

 詩序中古と言うのは瑞古にして九華の事で、関左と言うのは逢坂の関以東を言ったのだろう。

 此の詩は賢甫及哲(未詳)の三人に贈った詩であるけれども三人の中の首席たる九華の事を主として作った事は勿論である。

 彭叔の賞辞であるが儒、仏に亘った九華の学問は該博であったに違いない。

 一年研鑽の功あり東に帰らんとする時に彭叔送るの詩がある。


  九華老衲 随賢甫  遠関東之郷梓  於是 

 詩以餞其行色云 

  五経聞説久幡胸 歴一年帰意濃 

  貧聴東関村校雨 莫忘惠日寺楼鐘 


 三十九初老に近いから九華老衲と言ったのかも知れない。即ち別れの情緒豊かなるが詩に籠っている。

  九華の人物

 京都より帰って十余年九華の声望日々厚きを加え天文十九年六世 主文伯が寂して其の後を継いだ時に五十一歳であった。九華の学問に孜々として倦まざりしは三十五、六才にて東游せしにてんも知る可く、之に加うるに人格高潔にして学識博く為に学徒四方より集り来り門弟実に三千人、その盛況前後鳴く北は奥州方面より南は九州の果てまで至らざるはなく、天叟、熙春、真瑞、乾室、蛮宿、英文、九世閑室十世龍派、要法寺の日性、天台の天海等高弟が雲の如く輩出したが、我が三州よりも承直(日向)、以継(薩摩)、文苑(同)、九益(大隅)著名の士があった。

 殊に生徒を指導することの手厚かった点、各個別に指導せし点などは現今の個性指導と同じく学生不解の字又は語ある時は紙に記して学校庭前の松の木の樹幹又は樹枝に貼れば九華は毎日其の解答を懇切に貼紙の傍に書くのを例としていた。故に当時の人々は此の松を字降の松と名づけていた。現存している松は其の子孫だと言う。

 何千の生徒中其の重だった人々を指導するにしても大変である。人が違えば質問も様々である。それを面倒とも思わず丁寧に指導する真摯なる態度は教育者の模範とせねばならぬ。其の説くや微に入り細に亘って説明した。弟子の熈春が周易の講を感謝したる詩の序に、天正十二年八月十日、九華の七回忌辰の詩序の一句に、聞講周易 十旬而終之恩義大哉と言ひ、又、徳香不改七梅花 と七絶の結句に賦して徳を慕うているのを見れば死後七年愈々学徳の光耀せしを知る。

 其の学識深く人格高潔にして学校殷賑一世に秀でていたことは、当時学敵、京五山派の如何に懼れたかは耆叔宿彭 の詩にても知る可く

  癸丑之歳予有招熈春首座之野作 

 学校老師九華次其韻 賜一章

  後日不聞鴻恩 因而不能再和 多罪多罪 

 今茲乙卯熈老歸京於是乎 有僧入関左

 不堪躍 遂前韻 ??一絶以

 奉答千机下 云 

 師翁立学在東方 孔日 回猶(不明)

 白髪□□齢六十 靑衿着了侍灯光


 癸丑は天文二十二年、熈春は九華の高弟にして東福寺の僧である。 此の詩は彭叙が九華の門に入っている熈春を招師せる詩に九華が和韻して贈れる詩を見熈春が歸山後再和して贈れる詩せあるが、惜しむらくは九華の詩秩亡して伝わらず、此の詩によって察するに如何に尊敬し敬意を表しているかの一面が偲ばれる。

 同じく五山の僧巣雪が鎌倉に来たりし時の詩を見るに 

  自鎌倉 寄九華 詩 

  九華山容名字新 思量学者仰之 

  桃紅 李白薔薇紫 東魯 春風属一人

 学者仰いで臻り紅白とりどりの花は一人を慕って集まる如何に崇望されたかが察せられる。

   

  

『教育と文化』第100号をもって廃刊に

私が所員、復代表、代表(後に所長)として関わっていた国民教育文化総合研究所の季刊誌『教育と文化』が第100号をもって廃刊することになった時、求められた書いた一文である。


 『季刊フォーラム 教育と文化』の創刊は1995年10月であった。1992年8月、教育総研の夏季研究集会の折、転んだ弾みで頸椎を損傷し、それ以降、寝たきり状態になられた海老原治善初代所長にかわった日高六郎第2代所長の時である。いや正確にいえば、編集や執筆時期がその時であり、発行日の10月は宮坂広作第3代所長になっていた。  当時の編集委員会メンバーを確認すると、原田三朗(研究会議議長)を編集長とし、宮坂広作(研究会議議員)、鎌倉孝夫(副所長)、黒沢維昭(所員)、日高六郎(所長)、嶺井正也(所員)、西沢清(副所長)、松崎昂(事務局長)が編集委員となっているた。  巻頭言は日高所長の「発刊に寄せて」であり、巻頭言の後の「発刊に寄せて」欄には横山英一日本教職員組合中央執行委員長、奥地圭子東京シューレ代表、栗林世連合総合死活開発研究所所長、佐藤竺財団法人地方自治総合研究所所長、そして最後に海老原治善教育総研顧問がメッセージを寄せている。 

 横山委員長のメッセージには教育総研が1990年6月に創立されて五周年にあたって本誌が創刊されたと書いてあるが、教育総研が海老原所長、鎌倉・西沢副所長体制として開所し、実際に機能し始めたのは1991年8月からである。したがって、実際の活動を起点として考えれば四年を経過してからのことである。

  特集の設定、執筆者の選定・依頼など毎回苦労したことが思い出されるが、一番悩ましかったことはなかなか販売部数が伸びないことであった。そもそも教育総研自体が組合員に知られていないことも大きく影響したのかも知れないが、販売部数が伸びないのは頭痛の種だった。  本誌の編集、発行はさまざまな試行錯誤の連続であったことが記憶に残っているが、二つのエピソードを紹介しておきたい。

 一つは、日教組の「顔」ともいえた『教育評論』が2007年1月をもって休刊となるので、それを「教育と文化」で引き継いで欲しい、と当時の副所長から告げられた時に、おおおいに戸惑ったことがあった。 

 『教育と評論』には拙稿を書かせてもらったことはあったが、編集に関係したことは一切なかった。したがって、何を、どのように引き継げばいいのかはっきりつかめないままに引き継ぐことになった。編集委員会で議論した結果、第48号から「教育現場の肉声を聞く」というコーナーを設けたのである。そのことについては第50号の巻頭言に、当時教育総研代表になった私が書いている。ただ、この新たなコーナーが「教育評論」を何らかの意味で引き継ぐことになったのかについては自信がない。

  二つめは、第69号をもって私が編集人を降りたことである。編集責任を明確にするということもあり、第8号からは「編集委員会」ではなく単独名の「編集人」方式とし、代々、代表・所長(所長制→代表制→所長制と、私が関わっていた時代にはこう変遷している)がその任についてきた。 私がその編集人であっただが、70号編集の段階で、原稿依頼を行い、書いてもらった原稿を不掲載にせざるを得ないという事態が発生した。その理由や経緯についての詳細は省略するが、執筆内容自体に問題があったわけでもなく諸事情による不掲載である。編集人としての責任は免れないと判断し、第70号からは池田賢市副所長に編集人をお願いした。

  以上が簡単な廃刊に寄せるコメントである。教育総研の理論誌としての『教育と文化』が100号をもって廃刊することが何を意味するのかを自問しながら、本稿を閉じることとしたい。

*「鴨着く島」というタイトルでブログを書いていらっしゃる鹿屋市在住の方に問い合わせたことに対する以下のようなコメント(2019年11月13日付)をいただいていたのに、2024年12月27日にようやく気がついた。非常に貴重な御指摘なので、ここに引用させていただくことにした。

2019-11-13 09:59:05 | おおすみの風景 

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10月26日に東京都にお住いの嶺井正也さんという方から標記の「大隅の鴻儒・九華と足利学校」という大隅史談会会誌『大隅』の第一号に掲載された論考のコピーを送っていただいた。

 この論考は大隅史談会の初代会長・永井彦熊先生が書かれたもので、大隅出身の「九華」(きゅうか=これは僧侶で言えば出家名だが、儒者なので若干意義は違うけれどもペンネームというべきか)という人物が当時の学問所として最高峰の「足利学校」の校長になり、それも門弟3千人というほど学識に優れた人であったそうである。

 嶺井さんからは最初私のところにお問い合わせがあり、『大隅』第一号に永井先生の論考があるがこちらでは手に入らないとお答えしたら、何と鹿児島県立図書館に聞いたら第一号がありますとなり、コピーを分けてくださったのであった。

 嶺井さんには読んでから返事を差し上げようと思い、読んではみたものの難解この上なく、九華の学問(儒学と易学)はもとより解説を施して下さっているはずの永井先生の論考そのものに悪戦苦闘することになってしまい、お礼の返信もままならぬまま3週間が過ぎてしまった。

 論考の中でもっとも知りたいのは九華の出自で、大隅出身とあるにしてもいったいどこのどの家柄の出自なのかが、まずは知りたいところである。 以下に書き連ねたことは実は嶺井正也さんのブログにコメントとして書き込もうとしたもので、何回やってもブログのコメントに繋がらないので、嶺井さんも見に来て下さっているという当ブログ「鴨着く島」に掲載してみました。

 まず九華の出自に関して永井先生は「九華は明応7(1498)年、我が大隅の伊集院氏の支族に生まれた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集院氏であるから当時の大隅における伊集院は垂水か加治木か判明しないが、現在伊集院の姓の垂水方面に多いところから見て、或いは同地方であったかも知れず、或いは伊集院の姓でなかったなかったかも知れない。名は瑞古、玉崗と号する。」 としています。

伊集院姓だったようだが、そうではないかもしれないーーとやや矛盾した見解を示していますが、伊集院氏だという根拠は出されていません。論考の中に「足利学校由来記」とか「足利学校由略記」のような文献が挙げてあり、そこにそう記載されていたのかもしれません。

 一応私は「火の無いところに煙は立たず」と思い、伊集院氏の出自だとして考えてみることにしました。ここからはあくまでもそれを前提とした愚考です。 伊集院氏は島津氏初代忠久の嫡孫忠時の傍流から始まり、そのまた子の世代が伊集院を所領したことから伊集院姓を名乗り、五代目の忠国という人物が傑物で男子二人が出家して当時屈指の高僧(禅宗)になっています。 

 ところが7代目の伊集院頼久が島津家9代目の相続問題にあたって、叔父で福昌寺住持だった石屋真梁の子を本家9代目に据えようとして悶着を起こします。これは島津久豊の早い対応で久豊側に軍配が上がりひとまずは和解します。 伊集院氏8代目を継いだ煕久(ひろひさ)がまた悶着を唱え、今度は殺害事件を起こしたのでとうとう追放(というより逃走)の憂き目に遭います。この時、伊集院嫡流は断絶します。これが1450年頃です。 嫡流(本家)は無くなりますが、傍流は何とか生き残ります。

もっとも、嫡流に近い傍流などは咎を受けて領地没収などを食らい、姻戚(特に母方)などを頼ってあちこちに分散したものと思われます。 

 この流れは大隅半島にも及んだのではないでしょうか。やはり母方が大隅の豪族であればそこを頼りにするのがもっとも安泰を得られる落ち方でしょう。 そして九華ですが、この人が大隅の伊集院氏の出自とあれば、以上のような経緯で大隅にやって来た伊集院氏の一族の生まれだと思います。

父か祖父かはわかりませんが、1450年頃に落ちてきた当時は伊集院氏を名乗れず、当初は母方の姓を名乗り、1~2代のちに傍流の伊集院氏が島津家の家臣として目覚ましい働きをするようになるとやっと伊集院氏を名乗れるようになったのだと思います。

 5代目の伊集院忠国の傍流の中に「久」を冠した通り名の家系があり、もしかしたら九華の「九」は「久」の音読み「キュウ」の当て字かもしれません。

 先に触れましたが、この伊集院忠国の男子のうち二人までが禅宗の高僧となりそれぞれ「広済寺」「妙円寺」という薩摩で屈指の大寺の開祖になっています。福昌寺というのちに薩摩藩最高の格式を有するようになった大寺の住持に傍流の出の石屋真梁がおり、この人のもとで学僧1500名が学んだなどと、『鹿児島県の歴史』(旧版・原口虎雄著・山川出版社)には書いてあります。

 以上の伊集院氏出自の高僧たちはまだ8代目煕久の反乱の前だったのでその名を留めていますが、九華が学問に励んだ頃はまだ伊集院氏は島津にとっては「賊徒」であり、薩摩半島に渡って当時すでに高名だった桂庵玄樹学派の朱子学などを学ぶのが最良の道だったのでしょうが、出自のことがネックになり不可能だったか、あるいは九華自身が嫌って、足利学校に足を運ぶことになったのではないでしょうか。

 伊集院氏は1500年代後半期には復活して島津家の家老職を担い、戦国末期の忠棟などという人物は天下の秀吉に取り入って、都城8万石を貰うという「快挙」を挙げ、このことがまた悶着となり、結局、忠棟とその子忠真は「叛徒」として誅伐され、再び本流は滅びてしまいます。

 このこともまた伊集院氏の出自である九華が薩摩に高名を得なかった理由かもしれません。「敗者」「賊徒」は時代の陰に隠れてしまうのが世の常ということでしょう。

 大隅出身の永井彦熊先生は若い頃、東京での修学ののちに一時栃木県の高校に勤務していたことがあったと聞いた(読んだ?)ことがあります。 その時代に足利学校を訪れた時、足利学校由緒記などの展示物を見て「ああ、7世の九華は大隅の出身だったのか」と驚嘆し、また欣喜されたに違いありません。 

 嶺井正也さんはウィキペディアによると大学の先生ということですが、同じような感慨を得られたのではないでしょうか。「埋もれた大学者・九華」をいつか『大隅』誌に載せていただくとありがたいです。

私は現在大隅史談会を離れておりますが、先生のような地元出身の方がこういった歴史の掘り起こしをされたら、地元も目覚める(!)のではないかと思います。/strong>

本稿は2006年7月に、同年12月に強硬された教育基本法全面改正を前にした書いた原稿である。>


 周知のように、国連の子どもの権利条約は1989年11月20日に国連総会で採択され、1990年の9月2日発効した。日本は政府による批准がおくれ、1994年5月16日になってようやく批准をした。その後、子どもの権利委員会が1998年6月5日に第一回総括所見を、2004年2月に第二回総括所見を日本政府に提出した。

  しかし、その総括所見による子どもの権利保障はなかなかすすんでいない。それどころか、子どもの権利条約に精神を踏みにじる教育基本法「改正」案が国会に上程される状況になっている。ゆゆしき事態だといわざるを得ない。

  子どもの権利条約の観点から教育基本法改悪の動きを批判的に検討した教育総研・子どもの権利条約と教育基本法研究委員会報告「教育基本法と子どもの権利条約」(『教育総研年報2005』労働教育センター、2005年)をも参考にしながら、政府案を検討することにしたい。 


 1. 権利主体としての子どもの観点なし  

 子どもの権利条約の最大の意義は、子どもを単に保護されるだけの存在ではなく、権利行使の主体として認めた点にあったことはいうまでもない。第12条の意見表明権から始まり、第13条の表現・情報の自由、第14条の思想・良心・宗教の自由、第15条の結社・集会の自由ばかりでなく、第31条の休息・余暇、遊び、文化的・芸術的生活への参加を権利条約は規定している。

  ところが、政府教育基本法案では、子どもの権利規定はまったくみられないどころか、第六条第2項では「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない」とする。子どもを学ぶ主体として位置づける発想や学校運営に参加し意見を述べるといった観点はここにはみじんも感じられない。


 2. 第14条が侵害される  

 政府法案では第2条で教育の目標を規定している。その第五号には、自由民主党と公明党の間であつれきのあった「愛国心」問題の妥協として、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」が盛り込まれている。「思想・良心の自由」という観点からの批判を避けるために「態度の養う」に表現が変わっているが、外から確認しやすい態度を育成することを通して「国を愛する心」を教育しようという姿勢がみえみえである。  前述した第六条第2項の規定と重ね合わせると、規律を守るなかですすんで国を愛する態度そして心の育成を図ろうとするのであろうか。これは権利条約第14条が「締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての子どもの権利を尊重する」と規定することに反する。  また政府案第十五条の「宗教教育」に関する規定で、現行法第九条の文言に「宗教に関する一般的な教養」という文言が入り込んでいる。さすがに「宗教的情操」という言葉は入らなかったが、今でも世界史や倫理などの科目で宗教に関する知識を教えていることを考えると、あえて入れた「一般的な教養」という言葉が「情操」を含むものになる可能性がないわけでない。やはり権利条約第14条との関係が問題になる。


 3. インクルーシヴ教育への視点がない

  子どもの権利条約の原案はポーランドが作成した。その第二次案では、「障害児は、可能な限り最大限、他の子どもに与えられるものと同様な条件の下で、社会的統合に向けて成長しかつ教育を受ける」というものであった(『子どもの権利条約と障害児』現代書館、1992年第1版)。最終的には権利条約第23条では教育だけを規定する項目はなくなったが、社会的統合に向けての教育サービスを受ける権利があるとしている。  この統合教育的視点は、やがてユネスコの「サラマンカ宣言」で示されるインクルーシヴ教育へと発展し、今、国連で検討中の障害者権利条約草案では、インクルーシヴ教育が基本となっている。

  ところが政府教育基本法案第四条第2項では「国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない」とする。これでは「特別支援教育」よりも後退した「特殊教育」観的発想であり、インクルーシヴ教育とは相容れない。  なお、子どもの権利条約はその第二条の差別禁止規定に、障害による差別の禁止を組みこんでいる。これは国際条約として画期的なことであった。指摘するまでもないが、政府案第四条の「教育上の差別禁止」のなかに「障害」は入っていない。


 4.家庭教育の内実を規定していいのか  

 よく知られているように、子どもの権利条約もその第十八条で「子どもの養育及び発達ついて父母が共同の責任を有し・・・第一義的責任を有する」としている。政府教育基本法案も第十条で「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する・・・」と規定している。これだけ見れば、両者に齟齬はないことになる。  しかし、権利条約は第五条子どもの権利や子どもの最善の利益の保障に際して「親の指導の尊重」を掲げている。ただし、親の指導の内実については何も規定しない。それは「家庭教育の自由」という近代法の原則があるからである。もちろん、子どもの生命への権利侵害を意味する「児童虐待」を認めているわけではない。 

 ところが政府教育基本法案では「生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図る」というように家庭教育の内実に踏み込んでいるのである。しかも、政府案第二条の「教育の目標」が家庭教育に及ぶとしたら、それはとんでもないことになる。 5.マイノリティの視点がまったく欠落している  先述した第二条第五号に見られるように、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し・・・」という規定のなかに、数多く存在しる外国籍の子ども、あるいは自分の国籍は日本でもどちらかの親がかつて外国籍だった子どもたちのことは視野に入っているのであろうか。 

 権利条約第二十九条は教育の目的を規定しているが、そこでは「子どもの父母、子どもの文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」が示されている。どう見ても政府案と権利条約が一致するとは思われない。  しかも、権利条約第三十条は「マイノリティ・先住民の子どもの権利」も取り上げている。こうした視点は政府案には見られない。  なお、権利条約第二十九条の教育の目的のなかには「人権及び基本的自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること」が示されているが、人権や基本的自由についての教育は政府案にはまったく見られない。

  国際条約に抵触する政府教育基本法案の撤回を強く求める。 

 私の名前はシアラです。ニューカッスル出身で、2000年生まれの18歳です。家族の中でグリコーゲン貯蔵病1aを患っているのは私だけです。生後6か月のときに診断されました。  私はどんな運動も嫌いで、炭水化物や甘いものの多い食事をしていました。これが長い間続いたため、お腹がかなり膨らみ、身長が低く、髪の毛は細く短く、薄く、薄かったです。


 食事について警告を受けた

  ある日、病院で私の医師とマンチェスターの医師たちと面談しました。彼らは医学的な話をたくさんし、私はとても混乱しました。最終的に、きちんとした食事を始める必要があると言われました。そうしないと、肝臓移植が必要になるかもしれません、と。

  母と私はどうしたらいいかわかりませんでしたが、栄養士が、私と同じようにGSD1aを患っている息子を持つ家族に会うように誘ってくれました。 GSD1a の患者を他に知っている人はいなかったので、彼らに会えてとてもうれしかったです。初めて、孤独を感じなくなりました。しばらく話をして、母がアドバイスを求めることができるようになりました。別れる前に彼らは、「英国糖原病協会(AGSD-UK)の 集会に行ったほうがいいよ。人と会うには最高の機会だし、米国のデイビッド・ワインスタイン博士や他の人たちにも会える」と言ってくれました。 


 他の家族との出会い

  2016 年の糖原病協会の集会はブリストルで開催されました。ニューカッスルからは遠く、私がすべての器具や夜間の補食などを持っていくだけでなく、母がそこまで運転していく必要もありました。私たちは行くかどうかしばらく議論しましたが、結局「失うものは何もない」と考えました。 集会とワインスタイン博士 集会は最初、非常に技術的でわかりにくいように思えました。しかし、母と私は指針をいくらかでも教えてくれるだろうと思い、ワインスタイン博士に声かけました。博士は 1 時間以上も私たちと一緒に座って、私に合ったコーンスターチ療法について教えてくれました。


 食べ物の大きな変化

 私は 2016 年 10 月に新しい食事計画を始めることにしました。食生活を変え、夜間の食事 (私にとっては安全毛布のようなものでした) をやめたのは怖かったです。低炭水化物の食べ物を食べるようにし、甘い食べ物を控えました。乳製品、果物、お菓子はやめました。1 年以内で新しい食べ物とコーンスターチに慣れました。外見だけでなく、病気に対する感情的な対処方法まで、私は大きく変わりました。髪は濃くなり、身長も伸び (今も伸びています)、お腹のサイズもかなり小さくなりました。 


 感謝を伝えるため集会に再び参加

 1 年後、私はワインスタイン博士と、その過程でできた友人を含むすべての人々に感謝したいと思い、集会に再び参加しました。新しい情報を求めて、毎年集会に参加するようにしています。本当に役立つので、もっと多くの人に参加してほしいと思います。集会参加以来、自信がつき、就職して大学に進学する勇気が生まれました。今、大学では食品と栄養学を学んでいます。  

アントネット・ムーラ『イタリアのフルインクルーシブ教育 障害児の学校を無くした教育の歴史・課題・理念』(明石書店、2022年)とガート・ビースタ『教育にこだわるということ  学校と社会をつなぎ直す』(東京大学出版会、2021年)の二冊をざっと目を通した印象を記しておきたい。

良書を深く読み込んだ上での感想でしかない事を、あらかじめ断っておきたい。


まず最初の本。主題の「フルインクルーシブ教育」の「フル」という形容詞はイタリアでほとんど見かけない。この点について違和感を覚えたが、副題に「障害児の学校を無くした」とあることについて、あきれてしまった。以前、アメーバブログにも書いたが、イタリアには特別学校が現存するからである。その証拠の一つがミラノのある「ラリッサ・ピーニ特別小学校」の存在

なお、本ホームページにも書いたことがある。

https://inclmilanoitalia.amebaownd.com/posts/16410709


二つ目の本。

インクルージョン(包摂)という概念にはある特定の解釈がなされがちであるから、これからトランスクルージョンという考え方が必要だという。そうかなあ??という印象

 特定の解釈とは「包摂(インクルージョン)に関する主要な緊張の一つは、包摂を、「外部(outside)」にいる人びとを「内部(inside)」に連れて行く過程として考える限り、ある人びとをインサイダーとして、まあ、別の人びとをアウトサイダーとしてレッテルを貼ってきた社会的、政治的構造そのものを再生産することにつながりかねないということである。より深い意味では、包摂というアジェンダがそれを顕在化され、克服しようとしてきた、分断や権力関係そのものを維持させることにつながりかねない。これは、「外部」にいる人びとを包摂することを通じて、より包摂的な行為と存在の仕方をもたらそうとするすべての試みが、自動的に悪いとか無用のものだということを意味するものではない。しかし、包摂をそのような意味でのみ理解することで、私たちはそのなかから包摂(インクルージョン)と排除(エクスクルージョン)に関する問いが生れてくるような、より根本的な問題に取り組むことを妨げられる可能性がある」ということである。

 こうした理解をなくすために「トランスクルージョン」という新たな概念が必要である。それは「アウトサイダーとインサイダーの両者の位置を(それゆアイデンティティや関係性をも変えていく動きを明確にすることを求めるmのである」と。

 この文章をよみながら、かつての「インテグレーションからインクルージョンへの転換」に関する議論を思い出した。インテグレーションは、主流から分離された人々(セパレーション)を主流に受けいれるこであるが、インクルージョンはエクスクルードされた人々を、主流の文化、意識、制度を変えながら受け入れるものだという議論。

 また日本においては、変革的意味をもっていた「共生」という言葉が、いつの間にか体制維持の言葉になってしまったことも。

 新しく使われるようなりそうな「トランスクルージョン」がいつの間にか換骨奪胎されることはないのだろうか。


デンマーク・オーデンセ訪問記 
変わりつつあるデンマーク教育;子どもたちの笑顔が続くことを願って 


Ⅰ 2006年8月31日 14時20分 オーデンセ市役所訪問(ヒューン・アムト(県)オーデンセ・コミューン) 

 児童・青年委員会委員長(自由党選出市議)&担当行政官/ 委員長は非常に若い政治家

 /市議会は全部で29名で構成され6つの委員会があり、児童・青年委員会は7名の政治家(5政党)で構成/ 〇歳から十七歳までが対象 市の予算全体の約三分の一を占めている。4000万クローネの中、2500万クローネ/委員長(写真左側)は、小さい頃に学校が面白くなかった経験があり、なんとかデンマークの教育を変える必要があると考え、16歳の頃から政治活動を行ってきた。9年前の選挙で市議に当選し、昨年の三回目の選挙で今の与党が勝ち、自分も当選したので、念願の「児童・青年委員会」の委員長に就任できた。


 同委員会が基本的な市の国民学校(フォルクスコーレ=初等+前期中等教育)についての方針&戦略を定めるが、具体的なことは、自治のある学校で決定。これらの目標が達成されたかどうかを評価することになっている。国民学校は〇学年から10学年までで構成させれるが、義務教育は 全国統一テスト(9年生対象の従来のテストとは違うものの導入についての法律が2006年3月に制定)は必要。教員の間には不満があるだろうが、教員自身の仕事がどう実現されているかを測ることは必要だと考えているので、自分としては賛成の立場である。教育には知識伝達の面と人格形成との両面がある。この両面を統一するためクラスが存在し、9年間変わらないようになっているが、これまでは前者があまり重視されなかったのではないか。教員養成学校(師範学校)でも論議されてはいるが、今後、前者に力を入れるにはテスト導入が必要だと考えている。知識伝達が適切に行われているかを反省する必要があるからだ。また、その社会経済的な影響も調べると、政策に生かすことができるだろう。 PISAの結果から、デンマークの子どもたちは自己決定の力、自立、自己肯定感はトップだが、学力(リテラシー)面では低いことを自覚するようになった。その対策の一環でもある。

  統一テストの結果は、子どもの一人ひとりに対しては開示するし、学校ごとの成績も公表する。その結果、競争が生じるが、それは必ずしも否定されるものではない。その積極的な側面に注目して欲しい。 統一テストの結果は学校ごとの成績として公表する。結果が悪い学校に対しては、委員会が中心となって改善のためのアクション・プラン作成することになる。 また、オーデンセ独自の事業としては、5つの学校の相互交流による相互評価を行うようにするパイロット事業を開始したが、この事業計画づくりには、教員組合も学校評議会も参加した。 

 全国統一テストの方法は、年度ごとに学年と教科を特定して実施する予定。なお、9学年対象の卒業資格試験に関しては、対象科目数を増やす可能性がある。  もともと私立学校選択の自由はあったが、2005年(he 2005 School Choice Act.)からは公立の国民学校(基本的には9年制一貫教育の学校でコムーネ立。障害児学校などは県立だが近いうちにコムーネ立に移行)の選択も可に。おおかたは居住地近くの学校を選ぶが、「二言語使用者」が多い学校をデンマーク語者が避けて別の学校を選択するケースが増えてきている。 (二言語使用者とは、おおむね、非EU諸国の出身の移民を意味し、国籍の有無は問わないようである。たとえばドイツ語やスウェーデン語は母語とする人々に対しては使われない。)。 

 *2024年8月31日の筆者注:以下の資料では就学する国民学校が選べるようになっている。 https://ism.ku.dk/contact/brochures-checklists/brochures/ISM-schooling-in-denmark.pdf なお、こうした学校選択制は教員組合の抵抗により失敗に終わったとの研究もある。 Why School Choice Reforms in Denmark Fail: theblocking power of the teacher union 


  この移民に対する教育は大きな課題になっている。彼らをインテグレートしたりインクルードしたりするにはお互いの違いを正しく理解することが重要。彼らには早いうちにデンマーク語を習得してもらうようにしている。就学前でのデンマーク語教育の実施、デンマーク語を母語としない子どもへのデンマーク語教育担当者の養成、二言語使用の幼児に対してテストをして、その結果が良くない場合には、二言語使用者の多い学校ではなく少ない学校に就学させる措置、外国からの転校生に対する準備教育などをしている。オーデンセでも移民の子どもが85~95%を占める国民学校が2校ある。そこでは、半日学校ではなく終日学校にし、午後(13;20以降)にデンマークの歴史や文化を教えるようにしている。 * デンマークの新学年は8月10日から開始(2006年度) これまでが、たんに二言語使用者というだけで問題があると考えて対応しようとしてきたが、それはおかしいことであった。学校で問題があった場合に学校が申請をし、それに対処するように変わりつつある。 

 デンマークでは労働力が不足しているので、移民の生活向上のチャンスではある。そのためには、公的な機関にもっと採用をしていくべきだと考えている。介護関係では相当に進んでいるが、中には、色の黒い介護士を拒む人もいる。そんな差別的な人には公的支援をしないようにしなければならない。 多くの移民に高等教育に進んで欲しいと考えているが、アラブ系の家庭では、医者か弁護士にならないと学校教育に失敗したと考える風潮があるので啓発をする必要もある。デンマークでは大工は立派な仕事と考えられているのにアラブ系ではそうではない。移民の居住地を決定するときに底辺階層地区になる可能性が高いのは問題。  デンマーク国籍の取得には、7年間の在住実績とデンマーク語の試験の合格、それに労働の場が確保されていることが必要。これまではデンマーク語の合格レベルが高すぎたのでいまは少し下げている。 




Ⅱ 2006年9月1日12時~14時半  学校内会議室にて

  デンマーク教員組合・フュン県内2支部長(フュン県には6支部あり。


 オーデンセコミューンだけで1支部)との会見 まず概略説明あり。特定政党とのつながりはない。支部は全部で72.管理職も教員出身行政官も入っており、組織率はおよそ98%。師範学校の学生も数は少ないが入っている。

 学校内の分会から一人代表を選出し、年一回の大会で県の支部の執行委員を選出し、さらにその中から中央の代議員を選ぶ(これは4年に一回で、代表者数は25名)。創立130年の歴史あり。当初は教育方法や内容を話しあうのが中心であったが、今は労働条件改善の取り組みが加わっている。 

 全国統一テストの導入については、教育大臣との協議を求めたが、協議はなく導入が決定された。このテストは知識の量を測るだけであり、創造性や社会性の育成とは何の関係もない。過去に記憶されたことを調べても無意味である。 法律が決定されるまではいろいろと反対したり注文をつけ、独自に調査研究して『良い学校をもっと良くしよう』とか、自らの専門性向上をめざすための『    』といいう報告書を出したりした。 しかし、いったん決定した以上は従うのが民主主義なので全国統一テスト実施には協力する。 

 組合として、最近はカウンセリングを開始した。押し寄せる改革に波に対応できない教員が増加し悩んでいるからだ。  夏休みも長い(ただし、今年から1週間短くなり四週間)し、勤務時間も短いという批判があるが、仕事の内容が大変なのでなかなか教員志望者が増えないという現実もある。