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『教育と文化』第100号をもって廃刊に
私が所員、復代表、代表(後に所長)として関わっていた国民教育文化総合研究所の季刊誌『教育と文化』が第100号をもって廃刊することになった時、求められた書いた一文である。
『季刊フォーラム 教育と文化』の創刊は1995年10月であった。1992年8月、教育総研の夏季研究集会の折、転んだ弾みで頸椎を損傷し、それ以降、寝たきり状態になられた海老原治善初代所長にかわった日高六郎第2代所長の時である。いや正確にいえば、編集や執筆時期がその時であり、発行日の10月は宮坂広作第3代所長になっていた。 当時の編集委員会メンバーを確認すると、原田三朗(研究会議議長)を編集長とし、宮坂広作(研究会議議員)、鎌倉孝夫(副所長)、黒沢維昭(所員)、日高六郎(所長)、嶺井正也(所員)、西沢清(副所長)、松崎昂(事務局長)が編集委員となっているた。 巻頭言は日高所長の「発刊に寄せて」であり、巻頭言の後の「発刊に寄せて」欄には横山英一日本教職員組合中央執行委員長、奥地圭子東京シューレ代表、栗林世連合総合死活開発研究所所長、佐藤竺財団法人地方自治総合研究所所長、そして最後に海老原治善教育総研顧問がメッセージを寄せている。
横山委員長のメッセージには教育総研が1990年6月に創立されて五周年にあたって本誌が創刊されたと書いてあるが、教育総研が海老原所長、鎌倉・西沢副所長体制として開所し、実際に機能し始めたのは1991年8月からである。したがって、実際の活動を起点として考えれば四年を経過してからのことである。
特集の設定、執筆者の選定・依頼など毎回苦労したことが思い出されるが、一番悩ましかったことはなかなか販売部数が伸びないことであった。そもそも教育総研自体が組合員に知られていないことも大きく影響したのかも知れないが、販売部数が伸びないのは頭痛の種だった。 本誌の編集、発行はさまざまな試行錯誤の連続であったことが記憶に残っているが、二つのエピソードを紹介しておきたい。
一つは、日教組の「顔」ともいえた『教育評論』が2007年1月をもって休刊となるので、それを「教育と文化」で引き継いで欲しい、と当時の副所長から告げられた時に、おおおいに戸惑ったことがあった。
『教育と評論』には拙稿を書かせてもらったことはあったが、編集に関係したことは一切なかった。したがって、何を、どのように引き継げばいいのかはっきりつかめないままに引き継ぐことになった。編集委員会で議論した結果、第48号から「教育現場の肉声を聞く」というコーナーを設けたのである。そのことについては第50号の巻頭言に、当時教育総研代表になった私が書いている。ただ、この新たなコーナーが「教育評論」を何らかの意味で引き継ぐことになったのかについては自信がない。
二つめは、第69号をもって私が編集人を降りたことである。編集責任を明確にするということもあり、第8号からは「編集委員会」ではなく単独名の「編集人」方式とし、代々、代表・所長(所長制→代表制→所長制と、私が関わっていた時代にはこう変遷している)がその任についてきた。 私がその編集人であっただが、70号編集の段階で、原稿依頼を行い、書いてもらった原稿を不掲載にせざるを得ないという事態が発生した。その理由や経緯についての詳細は省略するが、執筆内容自体に問題があったわけでもなく諸事情による不掲載である。編集人としての責任は免れないと判断し、第70号からは池田賢市副所長に編集人をお願いした。
以上が簡単な廃刊に寄せるコメントである。教育総研の理論誌としての『教育と文化』が100号をもって廃刊することが何を意味するのかを自問しながら、本稿を閉じることとしたい。
kiriauto 1992年4月から1993年3月の一年間、イタリアのミラノ大学での在外研究でミラノに滞在した。
日本への帰国の直前に「なぜ、イタリアの教育を研究に来たのか?」というインタビューを受けたことがある。同時に、日本の受験競争についての質問も受けた。
*「鴨着く島」というタイトルでブログを書いていらっしゃる鹿屋市在住の方に問い合わせたことに対する以下のようなコメント(2019年11月13日付)をいただいていたのに、2024年12月27日にようやく気がついた。非常に貴重な御指摘なので、ここに引用させていただくことにした。
2019-11-13 09:59:05 | おおすみの風景
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10月26日に東京都にお住いの嶺井正也さんという方から標記の「大隅の鴻儒・九華と足利学校」という大隅史談会会誌『大隅』の第一号に掲載された論考のコピーを送っていただいた。
この論考は大隅史談会の初代会長・永井彦熊先生が書かれたもので、大隅出身の「九華」(きゅうか=これは僧侶で言えば出家名だが、儒者なので若干意義は違うけれどもペンネームというべきか)という人物が当時の学問所として最高峰の「足利学校」の校長になり、それも門弟3千人というほど学識に優れた人であったそうである。
嶺井さんからは最初私のところにお問い合わせがあり、『大隅』第一号に永井先生の論考があるがこちらでは手に入らないとお答えしたら、何と鹿児島県立図書館に聞いたら第一号がありますとなり、コピーを分けてくださったのであった。
嶺井さんには読んでから返事を差し上げようと思い、読んではみたものの難解この上なく、九華の学問(儒学と易学)はもとより解説を施して下さっているはずの永井先生の論考そのものに悪戦苦闘することになってしまい、お礼の返信もままならぬまま3週間が過ぎてしまった。
論考の中でもっとも知りたいのは九華の出自で、大隅出身とあるにしてもいったいどこのどの家柄の出自なのかが、まずは知りたいところである。 以下に書き連ねたことは実は嶺井正也さんのブログにコメントとして書き込もうとしたもので、何回やってもブログのコメントに繋がらないので、嶺井さんも見に来て下さっているという当ブログ「鴨着く島」に掲載してみました。
まず九華の出自に関して永井先生は「九華は明応7(1498)年、我が大隅の伊集院氏の支族に生まれた。生年の月日は判明せぬが、大隅の伊集院氏であるから当時の大隅における伊集院は垂水か加治木か判明しないが、現在伊集院の姓の垂水方面に多いところから見て、或いは同地方であったかも知れず、或いは伊集院の姓でなかったなかったかも知れない。名は瑞古、玉崗と号する。」 としています。
伊集院姓だったようだが、そうではないかもしれないーーとやや矛盾した見解を示していますが、伊集院氏だという根拠は出されていません。論考の中に「足利学校由来記」とか「足利学校由略記」のような文献が挙げてあり、そこにそう記載されていたのかもしれません。
一応私は「火の無いところに煙は立たず」と思い、伊集院氏の出自だとして考えてみることにしました。ここからはあくまでもそれを前提とした愚考です。 伊集院氏は島津氏初代忠久の嫡孫忠時の傍流から始まり、そのまた子の世代が伊集院を所領したことから伊集院姓を名乗り、五代目の忠国という人物が傑物で男子二人が出家して当時屈指の高僧(禅宗)になっています。
ところが7代目の伊集院頼久が島津家9代目の相続問題にあたって、叔父で福昌寺住持だった石屋真梁の子を本家9代目に据えようとして悶着を起こします。これは島津久豊の早い対応で久豊側に軍配が上がりひとまずは和解します。 伊集院氏8代目を継いだ煕久(ひろひさ)がまた悶着を唱え、今度は殺害事件を起こしたのでとうとう追放(というより逃走)の憂き目に遭います。この時、伊集院嫡流は断絶します。これが1450年頃です。 嫡流(本家)は無くなりますが、傍流は何とか生き残ります。
もっとも、嫡流に近い傍流などは咎を受けて領地没収などを食らい、姻戚(特に母方)などを頼ってあちこちに分散したものと思われます。
この流れは大隅半島にも及んだのではないでしょうか。やはり母方が大隅の豪族であればそこを頼りにするのがもっとも安泰を得られる落ち方でしょう。 そして九華ですが、この人が大隅の伊集院氏の出自とあれば、以上のような経緯で大隅にやって来た伊集院氏の一族の生まれだと思います。
父か祖父かはわかりませんが、1450年頃に落ちてきた当時は伊集院氏を名乗れず、当初は母方の姓を名乗り、1~2代のちに傍流の伊集院氏が島津家の家臣として目覚ましい働きをするようになるとやっと伊集院氏を名乗れるようになったのだと思います。
5代目の伊集院忠国の傍流の中に「久」を冠した通り名の家系があり、もしかしたら九華の「九」は「久」の音読み「キュウ」の当て字かもしれません。
先に触れましたが、この伊集院忠国の男子のうち二人までが禅宗の高僧となりそれぞれ「広済寺」「妙円寺」という薩摩で屈指の大寺の開祖になっています。福昌寺というのちに薩摩藩最高の格式を有するようになった大寺の住持に傍流の出の石屋真梁がおり、この人のもとで学僧1500名が学んだなどと、『鹿児島県の歴史』(旧版・原口虎雄著・山川出版社)には書いてあります。
以上の伊集院氏出自の高僧たちはまだ8代目煕久の反乱の前だったのでその名を留めていますが、九華が学問に励んだ頃はまだ伊集院氏は島津にとっては「賊徒」であり、薩摩半島に渡って当時すでに高名だった桂庵玄樹学派の朱子学などを学ぶのが最良の道だったのでしょうが、出自のことがネックになり不可能だったか、あるいは九華自身が嫌って、足利学校に足を運ぶことになったのではないでしょうか。
伊集院氏は1500年代後半期には復活して島津家の家老職を担い、戦国末期の忠棟などという人物は天下の秀吉に取り入って、都城8万石を貰うという「快挙」を挙げ、このことがまた悶着となり、結局、忠棟とその子忠真は「叛徒」として誅伐され、再び本流は滅びてしまいます。
このこともまた伊集院氏の出自である九華が薩摩に高名を得なかった理由かもしれません。「敗者」「賊徒」は時代の陰に隠れてしまうのが世の常ということでしょう。
大隅出身の永井彦熊先生は若い頃、東京での修学ののちに一時栃木県の高校に勤務していたことがあったと聞いた(読んだ?)ことがあります。 その時代に足利学校を訪れた時、足利学校由緒記などの展示物を見て「ああ、7世の九華は大隅の出身だったのか」と驚嘆し、また欣喜されたに違いありません。
嶺井正也さんはウィキペディアによると大学の先生ということですが、同じような感慨を得られたのではないでしょうか。「埋もれた大学者・九華」をいつか『大隅』誌に載せていただくとありがたいです。
私は現在大隅史談会を離れておりますが、先生のような地元出身の方がこういった歴史の掘り起こしをされたら、地元も目覚める(!)のではないかと思います。/strong>
<本稿は2006年7月に、同年12月に強硬された教育基本法全面改正を前にした書いた原稿である。>
周知のように、国連の子どもの権利条約は1989年11月20日に国連総会で採択され、1990年の9月2日発効した。日本は政府による批准がおくれ、1994年5月16日になってようやく批准をした。その後、子どもの権利委員会が1998年6月5日に第一回総括所見を、2004年2月に第二回総括所見を日本政府に提出した。
しかし、その総括所見による子どもの権利保障はなかなかすすんでいない。それどころか、子どもの権利条約に精神を踏みにじる教育基本法「改正」案が国会に上程される状況になっている。ゆゆしき事態だといわざるを得ない。
子どもの権利条約の観点から教育基本法改悪の動きを批判的に検討した教育総研・子どもの権利条約と教育基本法研究委員会報告「教育基本法と子どもの権利条約」(『教育総研年報2005』労働教育センター、2005年)をも参考にしながら、政府案を検討することにしたい。
1. 権利主体としての子どもの観点なし
子どもの権利条約の最大の意義は、子どもを単に保護されるだけの存在ではなく、権利行使の主体として認めた点にあったことはいうまでもない。第12条の意見表明権から始まり、第13条の表現・情報の自由、第14条の思想・良心・宗教の自由、第15条の結社・集会の自由ばかりでなく、第31条の休息・余暇、遊び、文化的・芸術的生活への参加を権利条約は規定している。
ところが、政府教育基本法案では、子どもの権利規定はまったくみられないどころか、第六条第2項では「教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない」とする。子どもを学ぶ主体として位置づける発想や学校運営に参加し意見を述べるといった観点はここにはみじんも感じられない。
2. 第14条が侵害される
政府法案では第2条で教育の目標を規定している。その第五号には、自由民主党と公明党の間であつれきのあった「愛国心」問題の妥協として、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」が盛り込まれている。「思想・良心の自由」という観点からの批判を避けるために「態度の養う」に表現が変わっているが、外から確認しやすい態度を育成することを通して「国を愛する心」を教育しようという姿勢がみえみえである。 前述した第六条第2項の規定と重ね合わせると、規律を守るなかですすんで国を愛する態度そして心の育成を図ろうとするのであろうか。これは権利条約第14条が「締約国は、思想、良心及び宗教の自由についての子どもの権利を尊重する」と規定することに反する。 また政府案第十五条の「宗教教育」に関する規定で、現行法第九条の文言に「宗教に関する一般的な教養」という文言が入り込んでいる。さすがに「宗教的情操」という言葉は入らなかったが、今でも世界史や倫理などの科目で宗教に関する知識を教えていることを考えると、あえて入れた「一般的な教養」という言葉が「情操」を含むものになる可能性がないわけでない。やはり権利条約第14条との関係が問題になる。
3. インクルーシヴ教育への視点がない
子どもの権利条約の原案はポーランドが作成した。その第二次案では、「障害児は、可能な限り最大限、他の子どもに与えられるものと同様な条件の下で、社会的統合に向けて成長しかつ教育を受ける」というものであった(『子どもの権利条約と障害児』現代書館、1992年第1版)。最終的には権利条約第23条では教育だけを規定する項目はなくなったが、社会的統合に向けての教育サービスを受ける権利があるとしている。 この統合教育的視点は、やがてユネスコの「サラマンカ宣言」で示されるインクルーシヴ教育へと発展し、今、国連で検討中の障害者権利条約草案では、インクルーシヴ教育が基本となっている。
ところが政府教育基本法案第四条第2項では「国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない」とする。これでは「特別支援教育」よりも後退した「特殊教育」観的発想であり、インクルーシヴ教育とは相容れない。 なお、子どもの権利条約はその第二条の差別禁止規定に、障害による差別の禁止を組みこんでいる。これは国際条約として画期的なことであった。指摘するまでもないが、政府案第四条の「教育上の差別禁止」のなかに「障害」は入っていない。
4.家庭教育の内実を規定していいのか
よく知られているように、子どもの権利条約もその第十八条で「子どもの養育及び発達ついて父母が共同の責任を有し・・・第一義的責任を有する」としている。政府教育基本法案も第十条で「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する・・・」と規定している。これだけ見れば、両者に齟齬はないことになる。 しかし、権利条約は第五条子どもの権利や子どもの最善の利益の保障に際して「親の指導の尊重」を掲げている。ただし、親の指導の内実については何も規定しない。それは「家庭教育の自由」という近代法の原則があるからである。もちろん、子どもの生命への権利侵害を意味する「児童虐待」を認めているわけではない。
ところが政府教育基本法案では「生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図る」というように家庭教育の内実に踏み込んでいるのである。しかも、政府案第二条の「教育の目標」が家庭教育に及ぶとしたら、それはとんでもないことになる。 5.マイノリティの視点がまったく欠落している 先述した第二条第五号に見られるように、「伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し・・・」という規定のなかに、数多く存在しる外国籍の子ども、あるいは自分の国籍は日本でもどちらかの親がかつて外国籍だった子どもたちのことは視野に入っているのであろうか。
権利条約第二十九条は教育の目的を規定しているが、そこでは「子どもの父母、子どもの文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること」が示されている。どう見ても政府案と権利条約が一致するとは思われない。 しかも、権利条約第三十条は「マイノリティ・先住民の子どもの権利」も取り上げている。こうした視点は政府案には見られない。 なお、権利条約第二十九条の教育の目的のなかには「人権及び基本的自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること」が示されているが、人権や基本的自由についての教育は政府案にはまったく見られない。
国際条約に抵触する政府教育基本法案の撤回を強く求める。
私の名前はシアラです。ニューカッスル出身で、2000年生まれの18歳です。家族の中でグリコーゲン貯蔵病1aを患っているのは私だけです。生後6か月のときに診断されました。
私はどんな運動も嫌いで、炭水化物や甘いものの多い食事をしていました。これが長い間続いたため、お腹がかなり膨らみ、身長が低く、髪の毛は細く短く、薄く、薄かったです。
食事について警告を受けた
ある日、病院で私の医師とマンチェスターの医師たちと面談しました。彼らは医学的な話をたくさんし、私はとても混乱しました。最終的に、きちんとした食事を始める必要があると言われました。そうしないと、肝臓移植が必要になるかもしれません、と。
母と私はどうしたらいいかわかりませんでしたが、栄養士が、私と同じようにGSD1aを患っている息子を持つ家族に会うように誘ってくれました。 GSD1a の患者を他に知っている人はいなかったので、彼らに会えてとてもうれしかったです。初めて、孤独を感じなくなりました。しばらく話をして、母がアドバイスを求めることができるようになりました。別れる前に彼らは、「英国糖原病協会(AGSD-UK)の 集会に行ったほうがいいよ。人と会うには最高の機会だし、米国のデイビッド・ワインスタイン博士や他の人たちにも会える」と言ってくれました。
他の家族との出会い
2016 年の糖原病協会の集会はブリストルで開催されました。ニューカッスルからは遠く、私がすべての器具や夜間の補食などを持っていくだけでなく、母がそこまで運転していく必要もありました。私たちは行くかどうかしばらく議論しましたが、結局「失うものは何もない」と考えました。 集会とワインスタイン博士 集会は最初、非常に技術的でわかりにくいように思えました。しかし、母と私は指針をいくらかでも教えてくれるだろうと思い、ワインスタイン博士に声かけました。博士は 1 時間以上も私たちと一緒に座って、私に合ったコーンスターチ療法について教えてくれました。
食べ物の大きな変化
私は 2016 年 10 月に新しい食事計画を始めることにしました。食生活を変え、夜間の食事 (私にとっては安全毛布のようなものでした) をやめたのは怖かったです。低炭水化物の食べ物を食べるようにし、甘い食べ物を控えました。乳製品、果物、お菓子はやめました。1 年以内で新しい食べ物とコーンスターチに慣れました。外見だけでなく、病気に対する感情的な対処方法まで、私は大きく変わりました。髪は濃くなり、身長も伸び (今も伸びています)、お腹のサイズもかなり小さくなりました。
感謝を伝えるため集会に再び参加
1 年後、私はワインスタイン博士と、その過程でできた友人を含むすべての人々に感謝したいと思い、集会に再び参加しました。新しい情報を求めて、毎年集会に参加するようにしています。本当に役立つので、もっと多くの人に参加してほしいと思います。集会参加以来、自信がつき、就職して大学に進学する勇気が生まれました。今、大学では食品と栄養学を学んでいます。
アントネット・ムーラ『イタリアのフルインクルーシブ教育 障害児の学校を無くした教育の歴史・課題・理念』(明石書店、2022年)とガート・ビースタ『教育にこだわるということ 学校と社会をつなぎ直す』(東京大学出版会、2021年)の二冊をざっと目を通した印象を記しておきたい。
良書を深く読み込んだ上での感想でしかない事を、あらかじめ断っておきたい。
まず最初の本。主題の「フルインクルーシブ教育」の「フル」という形容詞はイタリアでほとんど見かけない。この点について違和感を覚えたが、副題に「障害児の学校を無くした」とあることについて、あきれてしまった。以前、アメーバブログにも書いたが、イタリアには特別学校が現存するからである。その証拠の一つがミラノのある「ラリッサ・ピーニ特別小学校」の存在
なお、本ホームページにも書いたことがある。
https://inclmilanoitalia.amebaownd.com/posts/16410709
二つ目の本。
インクルージョン(包摂)という概念にはある特定の解釈がなされがちであるから、これからトランスクルージョンという考え方が必要だという。そうかなあ??という印象
特定の解釈とは「包摂(インクルージョン)に関する主要な緊張の一つは、包摂を、「外部(outside)」にいる人びとを「内部(inside)」に連れて行く過程として考える限り、ある人びとをインサイダーとして、まあ、別の人びとをアウトサイダーとしてレッテルを貼ってきた社会的、政治的構造そのものを再生産することにつながりかねないということである。より深い意味では、包摂というアジェンダがそれを顕在化され、克服しようとしてきた、分断や権力関係そのものを維持させることにつながりかねない。これは、「外部」にいる人びとを包摂することを通じて、より包摂的な行為と存在の仕方をもたらそうとするすべての試みが、自動的に悪いとか無用のものだということを意味するものではない。しかし、包摂をそのような意味でのみ理解することで、私たちはそのなかから包摂(インクルージョン)と排除(エクスクルージョン)に関する問いが生れてくるような、より根本的な問題に取り組むことを妨げられる可能性がある」ということである。
こうした理解をなくすために「トランスクルージョン」という新たな概念が必要である。それは「アウトサイダーとインサイダーの両者の位置を(それゆアイデンティティや関係性をも変えていく動きを明確にすることを求めるmのである」と。
この文章をよみながら、かつての「インテグレーションからインクルージョンへの転換」に関する議論を思い出した。インテグレーションは、主流から分離された人々(セパレーション)を主流に受けいれるこであるが、インクルージョンはエクスクルードされた人々を、主流の文化、意識、制度を変えながら受け入れるものだという議論。
また日本においては、変革的意味をもっていた「共生」という言葉が、いつの間にか体制維持の言葉になってしまったことも。
新しく使われるようなりそうな「トランスクルージョン」がいつの間にか換骨奪胎されることはないのだろうか。
デンマーク・オーデンセ訪問記
変わりつつあるデンマーク教育;子どもたちの笑顔が続くことを願って
Ⅰ 2006年8月31日 14時20分
オーデンセ市役所訪問(ヒューン・アムト(県)オーデンセ・コミューン)
児童・青年委員会委員長(自由党選出市議)&担当行政官/ 委員長は非常に若い政治家
/市議会は全部で29名で構成され6つの委員会があり、児童・青年委員会は7名の政治家(5政党)で構成/ 〇歳から十七歳までが対象 市の予算全体の約三分の一を占めている。4000万クローネの中、2500万クローネ/委員長(写真左側)は、小さい頃に学校が面白くなかった経験があり、なんとかデンマークの教育を変える必要があると考え、16歳の頃から政治活動を行ってきた。9年前の選挙で市議に当選し、昨年の三回目の選挙で今の与党が勝ち、自分も当選したので、念願の「児童・青年委員会」の委員長に就任できた。
同委員会が基本的な市の国民学校(フォルクスコーレ=初等+前期中等教育)についての方針&戦略を定めるが、具体的なことは、自治のある学校で決定。これらの目標が達成されたかどうかを評価することになっている。国民学校は〇学年から10学年までで構成させれるが、義務教育は 全国統一テスト(9年生対象の従来のテストとは違うものの導入についての法律が2006年3月に制定)は必要。教員の間には不満があるだろうが、教員自身の仕事がどう実現されているかを測ることは必要だと考えているので、自分としては賛成の立場である。教育には知識伝達の面と人格形成との両面がある。この両面を統一するためクラスが存在し、9年間変わらないようになっているが、これまでは前者があまり重視されなかったのではないか。教員養成学校(師範学校)でも論議されてはいるが、今後、前者に力を入れるにはテスト導入が必要だと考えている。知識伝達が適切に行われているかを反省する必要があるからだ。また、その社会経済的な影響も調べると、政策に生かすことができるだろう。 PISAの結果から、デンマークの子どもたちは自己決定の力、自立、自己肯定感はトップだが、学力(リテラシー)面では低いことを自覚するようになった。その対策の一環でもある。
統一テストの結果は、子どもの一人ひとりに対しては開示するし、学校ごとの成績も公表する。その結果、競争が生じるが、それは必ずしも否定されるものではない。その積極的な側面に注目して欲しい。 統一テストの結果は学校ごとの成績として公表する。結果が悪い学校に対しては、委員会が中心となって改善のためのアクション・プラン作成することになる。 また、オーデンセ独自の事業としては、5つの学校の相互交流による相互評価を行うようにするパイロット事業を開始したが、この事業計画づくりには、教員組合も学校評議会も参加した。
全国統一テストの方法は、年度ごとに学年と教科を特定して実施する予定。なお、9学年対象の卒業資格試験に関しては、対象科目数を増やす可能性がある。 もともと私立学校選択の自由はあったが、2005年(he 2005 School Choice Act.)からは公立の国民学校(基本的には9年制一貫教育の学校でコムーネ立。障害児学校などは県立だが近いうちにコムーネ立に移行)の選択も可に。おおかたは居住地近くの学校を選ぶが、「二言語使用者」が多い学校をデンマーク語者が避けて別の学校を選択するケースが増えてきている。 (二言語使用者とは、おおむね、非EU諸国の出身の移民を意味し、国籍の有無は問わないようである。たとえばドイツ語やスウェーデン語は母語とする人々に対しては使われない。)。
*2024年8月31日の筆者注:以下の資料では就学する国民学校が選べるようになっている。 https://ism.ku.dk/contact/brochures-checklists/brochures/ISM-schooling-in-denmark.pdf なお、こうした学校選択制は教員組合の抵抗により失敗に終わったとの研究もある。 Why School Choice Reforms in Denmark Fail: theblocking power of the teacher union
この移民に対する教育は大きな課題になっている。彼らをインテグレートしたりインクルードしたりするにはお互いの違いを正しく理解することが重要。彼らには早いうちにデンマーク語を習得してもらうようにしている。就学前でのデンマーク語教育の実施、デンマーク語を母語としない子どもへのデンマーク語教育担当者の養成、二言語使用の幼児に対してテストをして、その結果が良くない場合には、二言語使用者の多い学校ではなく少ない学校に就学させる措置、外国からの転校生に対する準備教育などをしている。オーデンセでも移民の子どもが85~95%を占める国民学校が2校ある。そこでは、半日学校ではなく終日学校にし、午後(13;20以降)にデンマークの歴史や文化を教えるようにしている。 * デンマークの新学年は8月10日から開始(2006年度) これまでが、たんに二言語使用者というだけで問題があると考えて対応しようとしてきたが、それはおかしいことであった。学校で問題があった場合に学校が申請をし、それに対処するように変わりつつある。
デンマークでは労働力が不足しているので、移民の生活向上のチャンスではある。そのためには、公的な機関にもっと採用をしていくべきだと考えている。介護関係では相当に進んでいるが、中には、色の黒い介護士を拒む人もいる。そんな差別的な人には公的支援をしないようにしなければならない。 多くの移民に高等教育に進んで欲しいと考えているが、アラブ系の家庭では、医者か弁護士にならないと学校教育に失敗したと考える風潮があるので啓発をする必要もある。デンマークでは大工は立派な仕事と考えられているのにアラブ系ではそうではない。移民の居住地を決定するときに底辺階層地区になる可能性が高いのは問題。
デンマーク国籍の取得には、7年間の在住実績とデンマーク語の試験の合格、それに労働の場が確保されていることが必要。これまではデンマーク語の合格レベルが高すぎたのでいまは少し下げている。
Ⅱ 2006年9月1日12時~14時半 学校内会議室にて
デンマーク教員組合・フュン県内2支部長(フュン県には6支部あり。
オーデンセコミューンだけで1支部)との会見 まず概略説明あり。特定政党とのつながりはない。支部は全部で72.管理職も教員出身行政官も入っており、組織率はおよそ98%。師範学校の学生も数は少ないが入っている。
学校内の分会から一人代表を選出し、年一回の大会で県の支部の執行委員を選出し、さらにその中から中央の代議員を選ぶ(これは4年に一回で、代表者数は25名)。創立130年の歴史あり。当初は教育方法や内容を話しあうのが中心であったが、今は労働条件改善の取り組みが加わっている。
全国統一テストの導入については、教育大臣との協議を求めたが、協議はなく導入が決定された。このテストは知識の量を測るだけであり、創造性や社会性の育成とは何の関係もない。過去に記憶されたことを調べても無意味である。 法律が決定されるまではいろいろと反対したり注文をつけ、独自に調査研究して『良い学校をもっと良くしよう』とか、自らの専門性向上をめざすための『 』といいう報告書を出したりした。 しかし、いったん決定した以上は従うのが民主主義なので全国統一テスト実施には協力する。
組合として、最近はカウンセリングを開始した。押し寄せる改革に波に対応できない教員が増加し悩んでいるからだ。 夏休みも長い(ただし、今年から1週間短くなり四週間)し、勤務時間も短いという批判があるが、仕事の内容が大変なのでなかなか教員志望者が増えないという現実もある。
https://agsd.org.uk/wp-content/uploads/2024/06/UK_DTX401-Ph3.pdf
*英国の糖原病協会のHP[に掲載(2024年8月15日確認)されたⅠa型糖原病に治療薬についての情報があったので、ここに紹介。日本でもほぼ同時期にhttps://jrct.niph.go.jp/latest-detail/jRCT2073230126でとりあげらている。
英国糖原病協会様
GSDIa の潜在的な治療薬として研究中の AAV8 遺伝子治療薬 DTX401 に関する最新情報を継続的に知りたいというご要望にお応えするため、Ultragenyx は、進行中の第 3 相 GlucoGene 試験 (2020-004184-2) の肯定的なトップライン結果(*1:訳者注)について昨日発表したことをお知らせします。このランダム化二重盲検プラセボ対照試験では、8 歳以上の 46 人の参加者に DTX401 またはプラセボが投与されました。
*1:「臨床試験の結果が主要評価項目に達成したか否かを評価した結果レポートのこと。全体
の結果を詳細に解析したフルレポートに対し、速報的な意味合いを持つ。製造販売承認申請
の重要な判断材料となる。」(https://ibd.qlife.jp/glossary/topline)
トップライン発表の概要は次のとおりです。
• 研究の主要評価項目は達成され、DTX401(*2:訳者注) による治療により、48 週目にプラセボと比較して毎日のコーンスターチ摂取量が統計的に有意かつ臨床的に意味のある減少を示したことが示されました。 • DTX401 で治療したすべての参加者は、血糖コントロールを維持しながら毎日のコーンスターチ摂取量を減らすことができ、48 週目には平均減少率は DTX401 グループで 41.4%、プラセボ グループで 10.1% でした。
*2 https://jrct.niph.go.jp/latest-detail/jRCT2073230126
によると「糖原病Ia型患者を対象としたグルコース-6-ホスファターゼのアデノ随伴ウイ
ルス血清8型媒介性遺伝子導入の第III相試験」と紹介されている。
• 安全性プロファイルは許容範囲内であり、第 1/2 相研究の結果と一致していました。AAV 遺伝子治療による肝臓への予測された影響はすべて重篤ではなく、予防的コルチコステロイド療法で管理可能でした。
• すべての実験薬と同様に、現時点では DTX401 の安全性と有効性はまだ確立されていないことを覚えておくことが重要です。
今後のこと
• 今年後半に開催される科学会議でデータを発表する予定です。
• この研究に参加したすべての患者の継続的な参加は、研究の成功にとって依然として重要です。第 1/2 相研究からわかっているように、コーンスターチ摂取量の削減は時間の経過とともに継続する可能性があり、規制当局の承認を得るためには長期データが不可欠です。
• AAV8 クラスの効果と危険性を含む DTX401 の安全性プロファイルは、研究と長期追跡調査を通じて引き続き監視されます。 • 2025 年に販売申請を支援するために、世界中の規制当局と協議する準備をしています。販売申請が提出されると、規制当局はそれを慎重に審査し、実験薬が高品質で安全かつ効果的であると見なされ、利点と危険性のプロファイルが良好で、臨床試験以外での使用が承認されるかどうかを判断します。
Ultragenyx を代表して、この遺伝子治療プログラムを支持してくれた GSDIa コミュニティに感謝したいと思います。数年前に研究を開始した皆様の早期支援から、DTX401 研究に参加している患者様やご家族、この研究に貢献している臨床医や研究者の皆様まで、私たちは皆様と共に DTX401 の開発を迅速に前進させるべく尽力できることを光栄に思っています。
まだやるべきことは山ほどありますが、これはコミュニティにとって重要な節目であると認識しています。私たちは、プログラムの進展に合わせてタイムリーな情報を共有することに引き続き尽力します。
本稿は、2009年1月10日(土) 専修大学神田校舎1号館8A会議室で行われた「岡村達雄さんを偲ぶ会」の「 第一部 シンポジウム 岡村達雄さんの研究・社会活動を振り返る 」を起こしたものである。15年も前の記録であるので、ここに登場される方々に事前了解はしないままでの掲載になっていることを、お詫びしておきたい。
残念ながら篠原睦治さんは2023年5月8日、鬼籍に入られている。
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嶺井正也 私は岡村さんの大学院時代の後輩に当たります。そういうことで「岡村さんを偲ぶ会」を呼びかけさせていただきました。第一部は、岡村さんの研究・社会活動を振り返ることをいたしますが、その進行役は、今回の発起人の一人であります筑波学院大学の宮寺晃夫さんにお願いしました。今日は、岡村さんのパートナーでいらっしゃる弥生さんが京都から駆けつけていただいています。なお、岡村さんのご遺影もお持ちいただきました。
宮寺晃夫(司会) それでは一部の始めに当たりまして一言呼びかけ人のほうからお話しをさせていただきたいと思います。偲ぶ会をしたいという最初のお話は嶺井さんのほうから私のほうにありまして、もうすでに関西のほうではこれと同じような試みをしているということでありましたので、岡村さんのもう一つの拠点であります関東地区でもぜひやりたいということで、こういう会を持つということで話を進めさせていただきました。
単に岡村さん個人の思い出を語り合うということだけでは物足りませんので、一部と二部に分けさせていただいて、一部のほうでは岡村さんの研究内容や社会的な活動内容についていわば客観的に眺めて、私たちの側から評価を出してみよう。それを通して岡村さんの遺志をこれから先私たちがどのように受け継いでいくかということを皆さんと一緒に考えていきたいと、そういう趣旨であります。
岡村さんの活動と言いましても多岐にわたっておりますので、それぞれの分野に分けて一番その分野について詳しい方に報告をいただき、そのあとでフロアの皆さんと一緒にさらに深めてまいりたいと、そういうふうに思います。 いちおう私のほうから今日報告者になっていただいた方のお名前だけ紹介させていただきます。江幡裕さん、篠原睦治さん、斎藤寛さん、北村小夜さん。ご当人のもう少し詳しい紹介に付きましてはのちほど自己紹介をしていただくことにいたします。では私のすぐ隣におります江幡さん、お願いいたします。
「著書をたどりながら岡村氏を偲ぶ」
江幡 裕 レジュメを用意いたしましたので、そのレジュメに沿いながら、果たして20分で終わるかどうか不安を抱きながらお話をしてみたいと思います。私と岡村さんとのつながりを整理してみますと、同じ大学院の中で同じ時期にキャンパス生活を過ごしたということが一つあります。それから、私が教育制度の講座であり、岡村さんが教育行政学の講座であるという違いはあるのですけれども、これは似通った隣同士の研究分野ということもあって、ほぼ同じようなことについてその大学院の中で勉強していたということ、この二つのところでの関わりがございまして、それゆえに私が今日スピーチ役をいただいたのではないかと思います。
大学院時代を思い返してということで、大雑把に年表風に整理してみたのでが、私と岡村さんとの大学院時代の交わりには、三つの世界があるのではないかと思います。一つは大学院のクラスの中で、研究室の中で、教室の中でという交わり。それからもう一つはこの当時、教育大学は筑波移転を巡りましていろいろな問題が噴出し非常に困難な時期であったわけですけれども、その筑波移転ということを巡っての交わりということが二つ目にあると思います。それからもう一つはほかの人たちには分からない、私と岡村さんだけの世界、インフォーマルというか密やかなというか。それは映画であったり、新宿のちょっといかがわしい飲み屋さんであったり、あるときは井の頭公園の真ん中のベンチの上であったり、というふうなことの中での交わりです。お手元にお配りした年表風なものもそれなりに一段・二段・三段というふうに整理してみたしたが、今日はその一段目を中心にして、二段目を背景に置きながら、お話を進めていきたいと思います。 私は1965年に大学院に入りました。そして一年遅れでで岡村さんが66年に大学院へ入ってこられた。私は71年に大学院を修了し、そのまま同じ教育大学の助手に就任しました。そして2年後1973年の3月に岡村さんは大学院を終わられ、4月に長崎大学へ赴任された。私も同じ73年のちょっと月はずれるのですけれども、7月に教育大学の助手を終えて香川大学へ赴任した。このようなことで、私たちの大学院生活がほぼ重なっているといます。
彼とは教育行政・制度という近接の分野で一緒に勉強してきたということではあるわけですけれども、本日のスピーチにおいて、この研究領域における彼の実績・業績・残された課題といったものを評価したりとか、総括したりとか、整理したりとかを進めるだけの準備はまだございません。彼が亡くなったというお話を聞いて、ともかく家の中のあちこちに置いてあった彼の本を書棚の一か所にまとめておこうということで、私の書庫の一部分に、岡村文庫的なものをまとめるというところまではできているのですけれども、それ以後彼の著書をもう一回読み直して、そして今申し上げたようなことをしてみようというような気持ちになれないという状況にあります。むしろ二人の大学院時代を思い出しながら、思い返しながら、しかしそれは個人的な思い出、思い直しがたくさんあるわけですけれども、本日の私のお話は、出席された皆さんと共有できそうなそういう事柄について、何とかこのくらいまでなら整理してお話できるかなと思う内容について、レジュメの形で準備をしてまいりました。 レジュメの2ページ目のところに「岡村氏の著書をたどりながら」という見出しを付けて5冊ほどの彼の著書を紹介し、それぞれの本を私が読んだときの印象・感動・感じを思い出しながら整理してみました。
まず、最初の『教育労働論-公教育の構造と官僚制』(明治図書 1976)。これは岡村氏にとっては最初の単著になるものです。そしてこれは「教育労働論」についての先達であり重鎮であった芝田進午氏に対するかなり挑戦的な根源的な批判を展開しているものでありました。そして教育学の世界では、教育活動とか教育実践とかいろいろな言葉が使われるわけですけれども、そういった教師が行なう教育活動・教育実践といったようなものを社会科学的な視点からとらえようとするとき、それは優れて教育労働という形で取り上げる・対象化する・分析するということが不可欠の課題であるということを宣言している本だと読み取りました。そしてこの本は76年ですから、さきほどの年表ですと私も岡村さんもそれぞれの大学で教員生活を始めていた時期なわけですけれども、この本を読んだ当初、私はあの芝田さんにかみついて大丈夫かよというような不安を感じながら、読み始めたことを今でも鮮明に覚えております。読み続ける中で、院生時代とはまた違う彼の決断、あるいは自己表明といったものを感じました。それまで院生時代に使っていた言葉を今思い返してみると、まさに本質・原理を求めて進むということは説得や連帯を求めていくということだけれども、しかしその過程において孤立することがあっても歩みをやめないというような、そういう決意表明。しかも大学教員としての生活をスタートさせるその時期に、この本の中で宣言しているのではないかというとらえ方をその当時いたしました。
それから二番目の伊藤和衛編著の『教育行政過程論』(第一法規 1976)。これは筑波移転の問題にそれなりの決着が付けられて、いよいよ教育大学が終わりになるというその時期に教育大学の教育学科の教員たちが企画して『教育学研究全集』(第一法規、全14巻)を編集・発行したわけですけれども、そのうちの第5巻において岡村さんは「教育行政計画論―現代教育計画の批判的考察」というテーマで論文を書いています。ここでもその教育行政あるいは教育制度の研究といったものにおける、最も中心的な眼目となるものを提起していたように思います。これは、そういった教育行政・制度といったものが常に国家内存在として編成され運営されているのだということ。しかも全体社会の多様な関係構造の変容とかその社会が直面している課題とかというものに促されて編成され運用されているのだということを真っ正面にまず据えなければならない。そしてそれら現行の行政あるいは制度が必然的に抱え込んでしまっているはずの矛盾といったものを本質のレベルにおいて批判し、その批判を展開していかなければならないということを展開した、と読み取りました。70年代の前半からこの時期にかけて、教育行政や制度の研究の領域では「教育計画論」ということが持てはやされておりました。あるいはシステム論であるとかあるいは未来予測に基づいた計画・立案であるとかというようなことが強調されておりました。そういった当時の学会の動向に対する彼なりの宣言であったと思います。
このようなことは院生時代にいろいろな場で、喫茶店の中であったり、座り込みの場の中であったり、あるいは新宿の裏のほうの隠微さの漂うスナックであったりというふうなところで散々、「分かんねえな。分かんねえな」という言葉を挟み込みながら、多くの院生仲間と車座になって、あるいは岡村氏と向かい合ってという形で議論を続けてきたことでありました。そういう意味では、この76年の論文を読んだときには、新米の大学教員としてどうやっていくかという「近い未来」への意欲や不安と、心の赴くままに身を置いていた「近い過去」の緊張や高揚とのズレを静かにしかし深刻に感じたというふうなこともありました。
それから三つ目の『現代公教育論―再編と変革への視座』(社会評論社 1982)。これは増補・改訂されて86年に出されました。この本の中で非常に印象深く読み取った内容は、現在われわれの目の前に展開している編成され運用されている公教育というものは、歴史的な規定として考えれば、近代公教育という歴史特性を持っているものであるということ。そしてまた戦後の憲法・教育基本法体制と言われるもの、それもそういった近代公教育体制という基本的な歴史的な社会的な政治的な制約性を持っているのだということ。したがって公教育にかかわる社会科学的な研究を進めていこうとするときの基本的な課題、それは近代における教育、教育における近代といったものが何なのかということ。どういう矛盾を持っているのかということ。どういうふうに克服されなければならないのかということ。そういうことを追求していくことが公教育研究としての教育制度・教育行政の研究の基本的な課題なのだということが、この本の中で繰り返し強調されていました。
60年代の熱気が終わって70年代の後半から80年代にかけて、教育学研究の世界の中で「批判だけでは駄目だ。それに代わるべき対案の提示ができないような研究は本当の研究ではない」というふうなことが言われるようになっておりました。そういうことに対す岡村氏の対抗的な研究姿勢の表明だったと思います。この本を読んだときにもまた院生時代に散々語り合った言葉を思い出したわけですけれども、それはこれまでの国民教育論とか国民の教育論とか教育権論とかといったものを絶対に乗り越えなきゃならないのだよ、それが持っているイデオロギー性といったものだけで批判したのでは駄目だし、結局その乗り越えるところのポイントは近代公教育批判なのだよ、というふうなことを言葉を変え場面を変えながら、彼が院生時代に私たちと語り合っていたことを思い返しました。
四番目、『教育運動の思想と課題』(社会評論社 1989)。これについてはその本を読んでの印象ということではなく、彼がその本を私に送ってくれたときにその本の中に包み込まれ同封されていた彼の手紙を読んだとき、89年の12月8日付けの手紙を数日後に受け取って読んだときの印象が今となってとても深く私にはよみがえってきます。内容的には差し支えないであろうと思いますので、私信ではありますがちょっと一部を紹介してみたいと思います。「拝啓 12月になりました。その後、ごぶさたしております。お元気のことと思います。8月初めから10月中旬にかけて、トルコ・ロンドン・ソビエトを回って帰国しました。その後、疲れもあったのでしょうか。毎日点滴で養生しています。それでもようやく復調しそうなので自分では休心しています。一人旅の不摂生で体を痛めさせたのだと思います」という一節が、この手紙の中に書かれておりました。彼は院生時代から身体強健というほうではなくて、むしろあるひ弱さみたいなものを身体的健康的には漂わせるところがあって、学生時代もひそかに案じていたというふうな時期もあったわけですけれども、89年の12月にこの手紙を頂いて非常に不安を感じ・心配し、そしておそらくその直後に大丈夫かというような手紙を出したのだろうと思います。それ以前から学会で年1回2回出会えるのを楽しみにしていたわけですけれども、この手紙以降は今年の学会も来ているのだろうなと心待ちに出かけていくけれども、「あれ、いない。会場探してもいないぞ」とか、懇親会の会場には「あれ、今年は出て来ていないんだな」とかという、そういう「会えない場面」みたいなものが非常に気になって過ごすようになりました。そのきっかけがこの89年にいただいた彼からのその同封の手紙であったと思います。
五番目、『教育基本法「改正」とは何か―自由と国家をめぐって』(インパクト出版会 2004)は彼の著書との最後の出会いになってしまいました。この本を読んだときに非常に印象深く、そしてまた彼の院生時代からの問題・関心といったものをしつこく頑強に持ち続けているということを改めて感じ取り、そして感心したという記憶があります。それはわれわれが公教育現実の中で作り出すべき対抗的な試み、あるいは運動、あるいは理論、さきほどからの近代公教育を批判しようとするときの対抗的な試み、それについて彼は二つの点を強調していたと思います。一つはそのままの言葉で引用しますと「寛容さを備えた価値多元的で共同的な関係性の場へ」試みを進めていかなければならない。共同的な関係性のあり方、それからもう一つは「国家と社会のあらゆる次元で越境できる・越境する自由の教育の創造へ」ということ。院生時代にも彼とも付き合いの中で、議論の中で、まだ彼がゼミや何かで書いたいろいろな文章の中で、決してこういう言葉ではなかったけれども、やはりこういうことを言っていた。「両立できないのではないの。その二つの方向というのは股裂きになっちゃうのではないの」というような印象を持ちながら彼と議論をしていたというふうなことが思い出されます。
そのことを2004年の本でもまた繰り返して、これこそがわが進む道といったものとして展開してくれているということを読み取って非常に感動しました。そしてこれこそ、われわれの教育学研究、教育制度であったり、教育行政であったりという研究がぶち当たっているものすごく大きな・ものすごく高い・ものすごく厚い壁なのだというふうなこと。この壁をどうしたら前へ進めること・乗り越えることができるかということをこそ、これから彼と語り合っていきたい。この本が最後の出会い、最後の著書になってしまったことを思い知るにつけて、そのことを今までにもっともっと語り合えていたはずだったのに、そのことがとても残念に思われます。
宮寺 江幡さん、どうもありがとうございました。ただ今の話の中で岡村さんが教育学者としてどういうような研
究をされてきたのかという話、お分かりいただけければと思います。私も同じ教育学をやっている人間ですが、やはり岡村さんの教育学はきわめて独自なものです。正統派とはとても言えないわけであります。教育自体もよきもの・守るべきものというふうに最初から決めてかかるような、そういうスタンスではなくて、岡村さんは常に教育の場とは国家の中に組み込まれていくものであるのだから、国家権力との対決というそういう姿勢を取り続けないと、せっかくやっていることも国家によって絡め取られてしまう。そういうことを常に私たちに自覚させてくれるような、そういう研究を出し続けてくれたように思います。それでは次に参りまして、今度、篠原さんお願いします。
「畏友岡村さんが問いかけてくれたもの」
篠原睦治 今日「追悼・岡村達雄さん、今は亡き畏友、岡村達雄さんの問いかけを振り返る」(社会臨床雑誌16巻2号 2009年2月)という文章をお配りしてありますので、そこに目を落としていただきながら聞いていただければと思います。それで限られた時間でこれを読もうかなと思ったり、それからこの中からいくつかのことをしゃべろうかなというふうに迷っておりましたけれども、後者で行くことに致します。ということで全部触れるわけにもいきませんし、時間が来たらパタリとやめるというスタイルで話をさせていただくということに致します。お許し下さい。
70年前後、岡村さんは大学院生で、ぼくは特殊教育学科で助手をすでにやっていたのですが、そんな関係で、ある時期、教育大学のキャンパスで、ある時間・空間を共有したことになるのですが、実はここでは、彼は筑波移転反対運動の院生・学部生の理論的なリーダーとしてすでに活動されていて、ぼくも、一応、この問題に緊張的にかかわってきたのですが、振り返ってみると相当いいかげんなスタンスで動いていたなと思っておりまして、そんな意味で同じキャンパスの中で共に学んだとか共に闘ったというそういう関係ではないのですが、少なくとも私は岡村さんの活動を気にし続けておりました。
ただ本格的に岡村さんと付き合い出したのは、実は1979年は養護学校義務化が成立してしまう年でありますけれども、その前後からであります。その頃、私たちの臨床心理学会は学会改革運動の中にありましたが、当然、そんな学会らしく、発達や教育の問題を考えたり、そこの文脈の中で養護学校義務化の問題を考えたりしていました。その頃、持田栄一先生も、「義務化」批判の発言をされ出していた頃でありましたが、臨心総会シンポ「養護学校義務化とは何か―歴史と現実から学ぶ」(会場 東大)を開きたいということで、北村さんに声をかけたり、それから持田栄一さんにも来てほしいというふうに思って、私は先生に頼みに行きました。先生は快諾されたのですが、総会のときを待たずに、数か月のうちに亡くなってしまいました。お葬儀に私も参列させていただきましたが、そのとき、確か彼とあらかじめアポイントを取っていたと思いますけれども、持田先生の葬儀の行われた池上の本門寺で彼と再会をするというか、本格的な付き合いが始まることになります。持田先生に代わってシンポジストになってほしいということが、彼と本格的に一緒に考え出す出発点でした。当然岡村さんは、「先生の思いを継いで弔い合戦をする」ということで、一緒にこの「義務化」問題を考えだしたということがありました。
これが78年の夏でしたが、終わりましたあとに、今日も来ているのですけれども山下恒男さんら、3、4人で飯を食ったのですね。そこで、この日の総会の過程を振り返りながら、急いで一冊にまとめようということになりまして、それができ上がったのが『戦後特殊教育・その構造と論理の批判―共生・共育の原理を求めて』(社会評論社 1980)ということです。このとき、彼は私にとってはでっかいいくつかの問題を提起してくれたと思っております。一つは、近代公教育における近代的な平等論批判でありました。それからもう一つ、私たちは当時、「どの子も地域の学校へ」「分けるな」ということで、「地域の校区の学校に行こう」というふうに呼びかけ合っていたわけですけれども、「校区の学校」を両義的に考えるという問題提起をされました。つまり、「障害」児が校区の学校から排除されているということそれ自体で、そこは、もうすでに能力主義的な選別性を持っていると指摘しています。したがってその分だけ、排除された側は一緒に学ぶということを求めて、「地域の学校へ」なのだと、「校区の両義性」ということを強調されました。
そんなことを巡って、以後岡村さんとは議論を進めていくわけですけれども、実は私は81年に、一年間チャンスがありまして、アメリカへ取材旅行に出かけます。その頃、アメリカでは、二つの流れがクロスしていました。一つは人種統合教育ですね。黒人と白人の共学というふうな流れ、これは公民権運動の流れの中で70年代から80年代にかけて展開をするわけです。それからもう一つ、「障害」者・「障害」児と言われる人たちがコミュニティーに戻ってくる。これを「メインストリーミング」というふうに言いますけれども、したがってコミュニティーの学校には黒人と白人とが共学するという流れと、「健常」児と「障害」児が共学をするという流れがクロスしているはずであるというのが、私たちが日本でマスコミ報道等で聞いてきた話でありました。私はこんな美しい話はあり得ないと疑っていたのですが、でも一回は現地に見に行こうということで、一年間相当向きになって取材活動をしました。
東京に戻って、一冊の本『障害児教育と人種問題』(現代書館 1982)をまとめるのですが、岡村さんは、この本を高く評価してくれました。このなかで、ぼくは、アメリカのメインストリーミングの流れは一緒にしといてまた分けるのだと、「統合化の新たな分離」という言い方をいたしましたけれども、それは「どの子も地域の学校へ」といった思いとはまた違うものであるというふうな発言をしました。私は、そこで、日本での「どの子も地域の学校へ」の思いと模索には、「日本的な共生論」があるのではないかと発言します。つまり、村落共同体における相互扶助性と異端排除性あるいは村八分性という両義性に着目して、村の中で暮らし合ってきた関係が持っている、包摂と排除といったせめぎあい、という文脈の中で「共生」というのを考えたわけです。これは斎藤寛さんが言いだした言葉でありますけれども、「せめぎ合う共生」ということですが、岡村さんは、このとらえ方に対しては批判しました。つまり「日本的」と括ることについての批判です。つまり国という概念を使って人間社会を描くことへの警戒的・禁欲的な姿勢です。これはまさに国家というものを意識し、対峙し続けてきた彼のこだわり方でありました。以後、私は「日本的」ということに対して緊張感を持って使い続けてきました。
ちょっと余談めいた話になりますが、私は80年代当初に北村小夜さんたちに口説かれてというか招かれてというか、全国教研などの共同研究者になっていくのですが、当時養護学校の義務化徹底の流れとそれを批判する私たちの流れの渦の中で、私も、針のむしろに座る思いで、でも向きになって論争しあった体験がございます。ところが80年代の後半になってくると日教組が分裂をするわけです。そういう流れの中で私自身も潮時だなというふうに思ったのですね。日教組が一方的に共同研究者の仕分けを始めました。私は「反日共・社会党系研究者」というふうなカテゴリーになったようでして、そんな扱われ方に対して反発して辞めることにしました。結果的には、再び北村さんたちに口説かれて、またしばらく続けることになりましたが、私は確かに党派性とかということについて非常に毛嫌いしているところあるのですが、もう一方で人脈に弱いという反省もありました。でもそういうところで、つながりを広げられてきたという意味で人脈主義のほうを取って来ました。これは対立的な概念なのかどうかは知りませんが、確か、京都辺りで全国教研があったときと思いますが、ぼくは、京都の岡村さんのご自宅にお邪魔して、ご夫妻のもてなしを受けながら、このことを話したとき、岡村さんから、厳しくというか静かに、人脈主義もまた政治主義・党派主義を補完すると指摘され、そのことの自覚を促されたことがありました。
次に申し上げることは結構でっかい話かなと思いますが、時間の関係でここだけにさせていただきますけれども、岡村さんは「共生論」・「共生・共育論」という言葉を、ぼくたちと一緒に使ってきたわけでありますけれども、私がある時期に、同じ教科書、テキストを使って、勉強のできる者もできない者も同じ時間・空間を徹底して共有するという、そういう問題提起をして、それなりに物議を醸したことがあります。それは、そこを通して人々が、子どもたちが、いろいろなふうにいろいろなことを体験していく、発見をしていく。つまり同じ時間・空間、同じテーマ・教材がただちに同一のいわば結果を期待するということではなくて、そうすることによって逆にお互いの関係が多様かつ力動的に生まれていくという、そういうこだわり方をしてきた経過がありました。
ところが岡村さんは、このことに対して一貫して批判的というか、疑問を投げ続けことがありました(岡村・山下・篠原「〈鼎談〉「共生」論を検証する(上・下)」臨床心理学研究27巻3号、28巻1号、1990)。これはさっき江幡さんが出されていた、その「寛容さを備えた価値多元的で共同的な関係性の場」の創造という文脈とつながる彼のこだわり方との関係で言っていたわけですね。私は、例えば「学校選択権」は基本的には駄目だ、つまり皆で無理してでも地域の学校に行こう、そういうことを言っていたのですが、彼は、この鼎談で、それについての違和感・異質感・異議というものを一貫して述べました。私はオタオタしながら対応したという経過がありますけれども、岡村さんは、多様性を認めるということと関係性を尊重することは、ときに矛盾し、非常に緊張的なテーマであるけれども、でも多様性も捨てるわけにはいかないだろうというこだわり方をされていたと思います。具体的に言えば、岡村さんは、学校教育の場を、障害を持った者と持たない者との関係のことだけではなく、日本人と外国人との関係問題、それから当時、彼は部落解放運動、だから解放教育の問題や文脈でも考えておりまして、母語と日本語の問題、学力保障の問題などを自他に問いかけていました。私などはむしろ「学力保障論」が入ってくることで、むしろ特殊教育つまり分離を認めてしまうことに警戒をしてきたという経過があって、なんとなく食わず嫌いなところがありましたけれども、やはり、このようなテーマを批判するにしてもしっかり抱え込みながら「地域の学校」を考えなくてはならないと気づかされてきました。
私は、「同一性」という言葉で必ずしも言ったつもりはありませんでしたけれども、結果的にはそういうふうに読めるような発言をしておりましたし、いまでも、そのことにこだわっていますが、岡村さんは、むしろ多元性とか、生き方とか価値観の多様性ということに対して、やはりここはきちんと見つめながら、なお、ここで「共存」という関係的なテーマを同時に追求するという、そういう運動的、思想的そして生き方のテーマとして、私に迫り続けていました。時間のことがありますので、ここで区切らせていただきます。
宮寺 お話を伺いながら岡村さんと同じ時代に院生時代を過ごして、そのときぼくの大学でもその当時助手の方が大変元気で、われわれ院生に対して発破をかけるというとおかしいのだけれども、「お前たち、何をしているのだ」というような、助手の方がむしろ私たちのほうに問いかけてくれるような、そういう環境がありました。幸いなことに私たちの場合ですと、篠原さんや、それからこの会場にも来られていますけれども、山下恒男さんという先輩の方が、もうすでにかなりラジカルな観点から研究者の在り方について常に問いかけてくれていました。それに後輩である私たちが応えざるを得ないという、そういう状況に置かれたことも思い出します。
それから中身にかかわって言いますと、篠原さんがそれからまた岡村さんが「共生・共学」ということを真っ先に使った研究者ではないかと思います。今日「共生」という言葉が広く使われ過ぎてしまって切れ味が鈍ってしまっているわけなのですが、この言葉が最初に出てきた当時のことは鮮明におぼえております。また、それは、「発達保障論」ということでも駄目で、また「権利としての教育」ということでも駄目で、そうではなくて、まずいろいろな人たちがいるということの空間の統一性・同一性というところから始めようと、そういう鋭い問題提起でした。これはこれから先、私たちが引き継いでいかなきゃいけない点だなと思います。それから後ほどお話を伺えるかと思いますが、山下さんは、「発達」という概念そのものに対して根本的な疑問を持たされた。これも大変衝撃的な出来事でありました。そういう今日からたどってみましても、近代・現代の中でずっと私たちが守ってこようとした教育の固有価値みたいなのに対する根源的な懐疑がその時代から始まった。また岡村さんがそれを率先して、そういう問題を提起してくれたということを忘れてはならないと思います。それでは次に今度斎藤さんにお願いしたいと思います。
「『平等』と『共生』をめぐって」
斎藤 寛 私は今のお二方よりもう少しあとになってから岡村さんに初めて出会っていまして、そういうことでは岡村さんはもうちょっと上の先輩に当たる世代の方です。私は、今、篠原さんのお話にもちょっとお名前が出ましたけれども、持田栄一さんに若いころ大変ひかれまして、「民主・国民教育論批判」ということを教育学の学問の世界で言っている方ってあの人だけだというような状況だったのですね。学問以外のところで言うと教育労働運動の左派の人たちは随分そういう理論活動を当時やっていました。60年代後半から70年代前半くらいの時期、教育について何か勉強するのなら持田さんだろうと思ったのです。ですから「教育行政学」に関心があって持田ゼミに行ったというよりは持田栄一という人に何かちょっと習ってみたいという、「習ってみたい」というのもちょっと語弊がありますが、そういう感じで持田ゼミのゼミ生になって、その延長上でのご縁で、岡村さんと、確か「教育計画会議」と当時言っていましたけれども、そのサークルの合宿か何かで初めてお会いしました。
お手元にある「岡村さんの平等批判を再読する」(社会臨床雑誌16巻2号 2009)というものが私の資料の代わりです。これをそのまま読み上げてもつまらないので、概略については述べますけれども、文章の方はあとでお読み下さい。
最初に岡村さんにお目にかかったのは、30年以上前だと思いますが、確か八王子にある大学セミナーハウスで、私は当時、『講座マルクス主義(6)教育』、それから『教育変革への視座―国民教育論批判』など、持田栄一編という形でいくつか本が出ていた中に岡村さんが書かれていた論文を読んでいて、そのイメージで言うと、岡村達雄という人は何かいかにも新左翼の闘士みたいな人なのだろうとばかり思っていましたが、お目にかかってみると「えっ? この方が岡村さんなんですか?」という感じで、大変物静かな文学青年風の方というか、ちょっと研究会の本題が一段落しますと、映画を語り詩を語りみたいな、そういうお方だったので、大変書かれたものとイメージが違うという、それが第一印象でした。どうもそれは私だけではなくて同じような経験をされている方が多いみたいです。ただ岡村さんがいったん論文を書くとか、こういうシンポジウムのような場で何かを語り出すとかいうことになりますと、「ああ、いかにも左翼の人だ」というような感じの方でありまして、私が印象深く覚えているのは、これは80年代の臨教審のころだったと思いますけれども、東大で自主講座「大学論」っていうシリーズがあって、そのときに確か岡村さんが臨教審批判の話をされたんですね。それが終ったときに、その講座の主催の人たちが岡村さんのことを「ああいう人が左翼っていうんだよねえ」と言っていたのをいまだによく覚えているのですが、そういう面もありました。けれども、私はどちらかというと物静かに深くものを考える方であった岡村さんという面に一番親しみを感じていたという、そんな印象があります。
岡村さんがいろいろ書かれたことというのは多岐にわたっていて、ワンポイントくらいしかここでは言えないなと思いまして、お手元の資料のエッセーに書きました中で、篠原さんの今の話と重なるのですけれども、『戦後特殊教育・その構造と論理の批判』という本にふれました。この本は篠原さんとそれから山下さんと嶺井さんも書かれていまして、ここで改めて振り返ってご紹介するのに大変ふさわしい本かなという気もいたします。そこで岡村さんが書いていることの中で、「校区論」ということを言われたりいろいろなことを言われていて、大変今読み返しても新鮮で面白い論文なのですけれども、ずっと私が気になっていたのが、「平等」とは何かをもう一度吟味するというくだりがあるのですね。「平等」という概念と「共生」というのは近いのか、違うのかというあたりを岡村さんが考えているくだりがありまして、今回追悼と言っても通り一遍の追悼では岡村さんは喜ばないだろうなと思って、もう一度岡村さんが書いたものを読み返して考えてみようという趣旨で書いたのがこのエッセーのメーンの部分だったつもりです。
さっきちょっと言いました「民主国民教育論批判」についてですが、当時の法解釈論と教育学が結びついて、ある種の近代主義的な学問の地平が作られていました。教育学のいわば進歩的な方面の方々のメーンというのはそういう世界にいたのですけれども、どうもそういう世界で和んでしまうのは社会科学からすればぬるいのではないかということを、「民主国民教育論批判」というかたちでずっと持田さんは言われ続けていました。当然岡村さんも「民主国民教育論批判」は議論の前提なのですが、私の記憶で言うと、持田栄一さんという方はその「民主国民教育論批判」ということを繰り返しあちこちで書かれた方なのですが、岡村さんは同じことをあちこちで繰り返し言うことに意味があるというふうには考えなかったんだな、というふうに今振り返って思うところがあります。岡村さんはいつも必ず自分なりのテーマを立てて、「平等」とか「校区」とかそれから「処分-裁判」とか、「三権分立としての国家を改めて考える」とか、そういうふうに彼なりにずっとテーマを立て続けて行ったところがあって、その中で折りに触れて「民主国民教育論者はこう言っているけれども、それじゃ駄目でしょ」という言い方をしたり、たぶん「処分-裁判」論あたりからは、「大体こういうテーマの立て方自体、民主国民教育論者は逆立ちしても立てられないだろう。どうだ!」みたいな感じで言われていたのではないかなという気がします。岡村さんは、同じことを繰り返し言うことにも政治的な意味はあるだろう、というふうにはふるまわなかった。それは大変にリスペクトに値することなのではないか、と今振り返って思ったりしています。
話は戻りますけれども、『戦後特殊教育・その構造と論理の批判』の論稿で「平等」について岡村さんが考えているくだりがあります。できましたらば、この本をあとでどこかで、今もう絶版でしょうか、図書館などにあれば見ていただきたい本なのですけれども、「平等」についていろいろな種別分けを岡村さんはそこでされているのですね。それでちょっと詳しいことはここで口頭では伝えにくいのですが、エッセーにもちょっと書きましたけれども、「絶対的平等」と言われるケース、つまり同じ法的処遇が実質的平等を保障するようなケースに特に岡村さんは注目していて、例えばどういうものかというと、男女共学などが例示されているのですけれども、同じ法的処遇をすることが実質的な平等を保障する「絶対的平等」というのが、様々な「平等」があり得る中で一番大事だというか、われわれに近しいというか、何かそういう書き方をされていました。 で、一方で「平等」とは一線を画して「共生」原理ということを岡村さんはここで言われていて、この文章のそもそもの書き起こしというのは、障害者差別の問題というのは「平等」とか「権利」とか、そういう法的なものの考え方の枠組みに切り縮めてしまってはいけないのだということから始まっている文章なのですね。だけれどもやはり「平等」概念は大事だからということで、その「絶対的平等」なるものを引き出して来て、これが「共生」原理と近いというようなことをほのめかされておられるのですが、この文章はそこで終わっています。その「絶対的平等」と「共生」原理はかなり重なるところもあるのか。近いけれども、やはり違うのか。「共生」原理というのはやはり「平等」というようなことを考える思考様式とは違うところにあるのだよ、と言いたいのか。そこは何かよく分からないまま終わっている文章だという印象が私はありました。で、これはずっと何か自分なりに気になっていて、これが気になり始めてから何回か岡村さんにお会いしているはずですから、何か直接伺ったこともあるはずなのですけれども、あまり記憶に残るようなお答えをいただいていないのは私の記憶力がいけないのか、疑問のまま残っていたのでした。
今回読み返してみて、私の考えでは、何か「絶対的平等」の地続きの延長上に「共生原理」があるというのは違うのではないか。その場合の「平等」というのは、そのエッセーにちょっと書きましたけれども、ある種の例えで言うと、静止画像みたいに時間の流れをいったん止めて、何かそこにいろいろな個人がいて、「国家権力」があって、「国家」が様々な「処遇」をしていると。その個人の間にどういう「差異」があって、それに対してどういう「処遇」がふさわしいかということを静止画像で考えるような、例えて言えば、そういう考え方なのだろうと思うのですけれども、「共生」「共に生きる」というのは、かかわり合って生きているわけですから、時間が流れていないと「共生」にはならないだろうと。そこのところがどうも基本的に違うのかなと思いました。
そうすると静止画像の方がものごとは論じやすいわけで、「共生」というのは大体論じるようなものとはちょっと違うのかな、とも思います。むしろ「共生」を表現するとすればエッセーだったりルポだったり、ひょっとして小説だったり、そんなふうになるのがふさわしいものかな、などと思ったりしています。 それで、学問ということで言えば、「静学」と「動学」、「静か」と「動く」というふうなことを古来言うようですけれども、「共生」はあえて言えば「動学」の話で、それに対して法的思考というのはどうしても「静学」の話で、そこはちょっと元々何か構えが違うようなことがあるのかなと思ったりしました。昔の話になりますが、私たちが若いころによく読んだ本で真木悠介さんの『人間解放の理論のために』というのがあります。彼はそこで人と人とのかかわりが相乗性になる場合と相克性になる場合とがある、人間が複数・多数いたときにそれがプラスになる場合、マイナスになる場合がある、みたいな立て方をしていました。これは時間が流れていないとそういうことは言えないので、真木さんの思考様式は静止画像ではないのですよね。どっちかと言うと「共生原理」というのは、静止画像ではなくて、時間が流れている中で何かいろいろなことを少しずつ少しずつ感じていくようなもの、それを仮りに「共生」と言うとするならばそう言うのかな、と改めて思ったりしています。 ただ、さきほどお話がありましたけれども、「共生」という言葉はやたらはやってしまって何だかよく分からない言葉になっていますので、もうちょっと何か別の言い方というか、あるいは何らかの別の表現方法のようなことを少しいろいろ積み重ねていって、こういうことがあのころ言っていた「共生」だよねというような、そういう言い方をもう少し考えないといけないのかな、と思ったりもしています。
お手元の資料の最後の部分に書きましたように、私は、人間死んだら無に帰するに決まっていると断定するようなタダモノ論者ではありませんので、こうした空間にも死者と生者は一緒にいるような感じがします。それで、岡村さんはたぶんここで聞いておられるような気がしますので、ちょっと岡村さんに確かめてみたかったり、また、お手元の資料のエッセーのなかで、岡村さんの「平等」批判の議論はここで取り上げた時期以降あまり深化されなかったというふうに書いてある点については、岡村さんに謝りつつ訂正・補足しなければならないと思っていたりします。
話を戻しますが、この「平等」論の後になると、岡村さんは、君が代訴訟、あるいは教員処分に対する裁判闘争にかかわる理論武装など、そういう面で運動とかかわって行くということが大変多くなったと思います。このへんからあとの岡村さんの活動には私は断片的にしか接していないので、ちょっと詳しいことはここでよく申し上げられないのですけれども、断片的な印象で言うと、例えば裁判闘争の中で意見書を書くとか、証人として陳述をするとかいうことになれば、これはどうしてもそれこそ法的思考の中で裁判官に通じるような、ものすごく制約コードがかかった次元での発言になるのですよね。ともかくも法解釈論のレベルでちゃんと通じるような議論をしなければならないわけですから。そういう議論を岡村さんは随分いろいろ引き受けて意見書を書いたりされていましたから、そちらの方にやはりどうしても彼の時間や関心やエネルギーが向かって行ったのではないかと思います。 岡村さんが『戦後特殊教育・その構造と論理の批判』の論稿、それから一つ言い忘れましたけれども、「教育―転生への視座」というタイトルの、近代理性批判という大変に重要にして面白いテーマを掲げたエッセーがあるのですけれども、これもさきほどご紹介がありました『現代公教育論』という本の中に、タイトルは変わっちゃっていますけれども入っています。それでそういうものを書かれた時の岡村さんは自由に深くものを考える方だったのですが、法解釈という局面でものを考えたり発言するというところに少し入って行かれたときに、やはりそれは岡村さんにとっては何か不自由なことだったのではないかというふうに思います。このへんからは推測の話なのですけれども、「俺はこんなに不自由だ」と彼から聞いたわけではないのですが、何かそういう不自由さの中で、ミイラ取りがミイラにはならなかっただろうけれども、自由な思考の振り幅が何ほどか切り縮められたように思われ、ある意味ではそれは残念なことだった、というようにお手元のエッセーでは書きました。
実は、その際にちょっと私が見落としていた大事なことがあって、その一方で岡村さんはこの時期に教員処分ということをテーマにして『処分論―「日の丸」「君が代」と公教育』という本を出されて、それから今ここにある分厚い本なんですが、『日本近代公教育の支配装置』、サブタイトルは「教員処分体制の形成と展開をめぐって」という、これは岡村達雄編の共著の本ですけれども、この分厚い本の最初のところを岡村さんが書かれています。
今の話の続きで言うと、例えば何らかの裁判闘争にかかわって意見書を書くとか証言をするとかという時に、証言者が「私は憲法・教育基本法なんか信じちゃいません」とか言うとそれはまずいですから、裁判官に通じるようにやはりものを言わないといけない。もう、裁判の勝ち負けはどうでもいいから、法廷を言いたいことを言う場にするのだというのだったら別ですけれども、そうではなかったのだろうと思うのですね、岡村さんのかかわり方というのは。そうすると、何かこういうことをやっている自分って一体何なのだろう? ということをきっとまた彼は考えたと思うので、それがこの本の中の言い方で言うと、その裁判、司法権というものも「国家」の、「国家権力」の支配装置である。だからその中で何をやってもむなしいかと言うとそうは言わないけれども、もう一度司法権というものを視野に取り込んで国家権力を問い直す、再審に付する、という必要があるみたいなことを言われているのです。 それで、こうしたことについてたぶん私が記憶している限りで最後の岡村さんから直接うかがったお話ということになるだろうと思うのですが、三権分立の観点から公教育論をもう一度考え直したいということを言われていました。司法・立法・行政の三権分立と言われているけれども、それに応じて社会科学の学問の方も、立法の学問だったり、行政の学問だったり、司法の学問だったりしていると。そういう学問の配置全体を批判的にとらえ返さなければならないのだという、こういう問いの立て方がいかにも岡村さんなのですが、そういうことを言われていて、その一端がここに書かれているように思いました。
その話の中で特に注目されている司法権というのは、滝村隆一さんなどの国家論で言いますと、そもそも「国家」というのは紛争の調停者というか、「調停する権力」として成り立ってくるもので、「第三権力」という言い方をしますけれども、岡村さんもここで「第三権力」という言葉を何回か使われています。その、紛争を調停する権力が「国家権力」だ。そうなってくると、三権分立についての教科書風のスマートな説明をいったん度外視して言えば、近代に限らず、あるいは、近代にあっても国家権力の本質にストレートに結びついているのは司法権だろうということになる。これは滝村さんも確かそういうふうに言われていましたけれども、そのあたりに話が結びついてくると、大変に面白い議論になったのではないかと思います。たぶん岡村さんはその途上だったのだろうと思いますが、「いや、その先もっとこういうことも岡村さんは書いているのに、あなたは読んでいないのか」というようなことがありましたら、どうぞ教えて下さい。 それともう一つ、この『支配装置』の論稿の中で岡村さんは「批判的な抵抗する主体というのが現れてくる契機がある」ということも言われています。
ただ、このあたりについては何人かの方が言われていますけれども、裁判闘争などに力を注ぐようになってからの岡村さんの権力認識というか議論の枠組みが、いわば大文字の権力としての「国家権力」対「対抗する主体」とか、あるいは「対抗しない主体」とか、そういうようなものの見方に行ったのかな、ある意味では戻ったのかな、という気もしないでもないのですね。 ところが対抗すると言ったって、それは市民社会の中にいろいろな主体があって社会権力がせめぎ合っているからこそ、「国家権力」なしでは済まないというのがこの社会だとすると、その中でも単に「国家」に「対抗する主体」だけではなくて、たとえば親子関係とか、それから『教育基本法「改正」とは何か―自由と国家をめぐって』という書物の中で、これは広瀬裕子さんも同じ箇所に着目してある冊子に書かれていましたけれども、教育関係の中で子どもたちというのは自らは知らないゴールへ連れて行かれる不安にさいなまされているとか、そうした話が顔を出すくだりがありました。そういう話というのは実はもうちょっと突き詰めていくと、何がゴールかと言えば、近代理性がゴールだというような話につながったかなと思うのですが、どうもそのへんが若きころの岡村さんが考えていたこととこの『支配装置』で言われている議論とまだうまくつながらないままに、岡村さんは他界されてしまったような感じがしています。これはやはり残された者が継ぐべき課題なのではないだろうか、と言いながら私などはどこをどう継げるのか全く分からないのですけれども、今そんなことを考えています。以上です。
宮寺 斎藤さん、ありがとうございました。もうこの場に岡村さんがいないのが本当に残念であります。いれば私のほうから指名して反論しろというふうに言いたいところなのでありますが、確かに岡村さんは自分の立てた問題にすべて答えを出し切って亡くなったという形ではなくて、問題を提起して、それを答えようとしている途中でいなくなってしまったという感じが強いので、ぜひ斎藤さんには岡村さんのその考えを引き継いで、「岡村二世」というとおかしいですが、新たな観点で岡村教育学を引き継いでいただけたら、ありがたいと思います。
さきほど整理されました「平等」と「共生」は重なるのかという問題、これはその問題を提起された時点ではかなりリアリティーがあったのですが、現在の時代に引きつけますとちょっとこの問題自身が成り立つか成り立たないか分からないくらいに、両方の概念ともぼやけてしまっています。もう一度やはり整理し直す必要があると思います。 それから自由な思考という点、お触れになりましたが、確かに岡村さんは発想法自身が本当に自由で、またいつも根源的で私たちドキリとさせられる場面が多々ありました。また当人自身も自分の議論について批判されるということを、大歓迎する、そういうタイプでありまして、そういう意味では論争を好むタイプの研究者でした。もういなくなってしまった今ではありますが、今後の私たちは岡村さんに問いかけながら、また岡村さんをある意味では批判しながら、それを継承していくというのが、岡村さんがもっとも望むところではないかと思ったりしております。それでは第一部の一番最後になりましたが北村さん、お願いいたします。
「岡村さんは『抵抗の闘い』を支え続けた」
北村小夜 私は今まで3人の方が主として岡村さんの研究活動についてお話されたと思いますが、私は障害児の教育にかかわった現場の教師でしたので、ほとんどそのような学問の分野にはあまり介入してきませんでいた。いま、お話を伺っていて「あぁ、そうか。あれはそういうふうにも読めるのだったかな」と思うところがありました。
定年退職して23年たちまして、だいぶ耄碌しております。今日の主催の方から岡村さんの運動のところを語れと言われたわけですが、もう本当に後期どころか末期高齢者で記憶もさだかでないこともありますが、思い出すことを並べてみました。
みなさんのお話にもありましたように、確かに岡村さんはレジスタンス的な活動に大変深くかかわっておられましたが、その拘り方は、斎藤さんがおっしゃるようについついかかわってしまって深入りされたようで、もしかしたらそれが寿命を縮めてしまったのではないかと思いさえします。その面でのお付き合いが割りに深かったものですから、その分について少しお話しようと思います。
振り返ってみると本当にたくさんの課題に応えてくださいました。本当にご苦労かけたなあと思います。 初めてお会いしたのは福岡地裁における伝習館の法廷だったように思います。伝習館闘争というのはもう皆さんご存じでしょうが、1970年に福岡県立伝習館高校教諭の茅島洋一さん、半田隆夫さん、山口重人さんが偏向教育を理由に受けた懲戒免職処分を不当として訴えた裁判です。第一審判決に際して岡村さんが話されたことをそのまま「柳城通信」89号(1979)からコピーしておきましたのでご覧下さい。(ついでにそこにもう一つ入れておきました資料は、小沢有作さんの差別発言を糾す会の記録です。)伝習館闘争当初から拘っておられ、二審ではご自身で緻密に組み立てられた表現で証言されています。 一つ一つ話しているときりがないのですが、それぞれの立場で深く拘ってこられた「伝習館を考える大阪の会」の白鳥さん、「西玉伝習館」の佐橋さんがここにいらっしゃいますのでお話していただいたほうがよいと思うのですが・・・。
しげしげとお付き合いするようになるのは、やはり前のお二人からもお話ありましたように養護学校義務化阻止の闘争のときでした。 私が岡村さんの理論にひかれたのは、当時の臨床心理学会の機関紙だったと思いますが、「校区論」とか「地域の学校論」について書かれたものでした。当たり前のようにして子どもは地域の学校に行くものだと思っていたのに、養護学校義務化で分けられるようになったとき、岡村さんの「校区論」は分離に反対する私たちに大変役に立ちました。義務化の阻止の闘争は養護学校義務化阻止共闘会議を中心に活動していましたが、やはり義務化が差別的な別学体制であるという点に集中して批判していたように思いますが、岡村さんは戦後教育の見直し一環として出てきたものだということを強調されたように思います。このことは、あとに反省として書かれていますが・・・。柘植書房から出された本『養護学校義務化以後―共生からの問い』(1986)には、義務化によって戦後特殊教育の別学制度として法制上の義務教育体制を完成させた上で、臨教審による戦後教育の見直しに至ることが書かれています。
養護学校義務化は1971年の中教審答申いわゆる「4・6答申」に示され、政府は1973年に1979年からの実施を決定しています。「4・6答申」には「敗戦後の占領下という特殊な事情のもとにとり急いで行われた学制改革によって生み出されたものを、いつまでも唯一の望ましい学校教育として維持すべきであると考えることは、教育を生々発展する社会教育の一環としてとらえることを阻むものといえよう」などというくだりがあります。
ともかく義務化阻止闘争の時期には何度も東京に来ていただくし、私たちも出かけて行くこともあって大変心強い仲間でありリーダーでした。
1987年には、京都「君が代訴訟」が起こされます。これは京都市教育委員会が卒業式・入学式等に「君が代」を国歌として歌わせるために全小中学校長に「君が代」のカセットテープを配布したこと(1986年)に端を発する全国初の「君が代」訴訟です。私はこの事件については何度か再場傍聴に行ったり、陳述書を出したくらいでかかわってはいませんが、これは非常に重要なことで、その後に行われる「日の丸・君が代」に拘る処分撤回闘争のほとんどがこの取組で指摘されたことを土台にしているように思います。いくつもの処分撤回闘争が続きますが、みな、京都「君が代」を土台に取組みを組み立てています。
そのことは北九州のココロ裁判の竹森さんも「京都の『君が代』訴訟があったから私たちは裁判を起こすことができた」といっています。岡村さんは本人訴訟のココロ裁判を実に親身になって支援しておられました。一審判決は2005年4月26日でしたが、判決を前に福岡地裁前で支援の列の先頭に立っておられる写真があります。
ココロ裁判というのは1996年ですが、全国に先だって北九州教委が実施した卒・入学式における「日の丸・君が代」の強制、すなわち「四点指導」(国歌斉唱を式次第に明記。国旗をステージ正面に掲げ全員正対する。国歌は教師のピアノ伴奏で、全員起立して心を込めて斉唱する。教師は式に全員参加。)の徹底に従わなかったために処分された教職員が起こした裁判で、一審では「教職員の思想良心の自由は個人の人間観、世界観と直接結びつくものではない」として認めませんでしたが、「四点指導」が47教育基本法の10条違反として減給以上の処分が取り消されました。一部勝訴といっていましたが、大変な成果だと思います。きちんと学習指導要領は大綱的基準であって、細部にまで拘束するものではないということを述べているのですから。残念ながら続けて3年余り闘った二審では全面的に敗訴し上告中です。
岡村さんは各地の裁判闘争、とく教師の処分撤回闘争には頼まれるまでもなくかかわってこられました。私たちは東京のことしかあまり知りませんが、関西でもたくさんの取組みをされています。いま、処分関係の手元にある見ると、大部分が岡村さんの手を煩わしたものであることに驚きます。 その中に日教組のシンクタンクである国民教育文化総合研究所(略称、教育総研)における小沢有作さんの在日韓国人女性Aさんに対する差別事件がありました。もしかしてご存じない方がいらっしゃるかもしれませんけれども、お配りしているものに、岡村さんの書かれた「民族差別と向き合うために―日本人の戦争責任・戦後責任の問題として」(糾す会編『小沢有作さんの差別発言を糾す運動の軌跡―記録と資料』1997)がありますが、岡村さんの書かれた総括の一部です。糾す活動は、東京や横浜でかなり長期にわたって断続的に行われました。私もほとんど同席していましたが、岡村さんはその都度に上京して中心的に活動しておられました。
その中で私は岡村さんが朝鮮・韓国人差別に反対して長い間取り組んでこられたことを初めて知ったのですが、若いときからずっと課題にしてこられたそうですね。ですから小沢有作さんの差別発言を糾す会でしたが、実は自分たちの差別を糾す役割を果たしたと思っています。糾す活動は、対象が小沢さんという解放運動などで世間的にそれなりの実績を持つ方でしたので非常に困難でしたが、岡村さんは小沢さん個人だけを糾弾するのではなくて、日本人の差別の問題をどう糾弾するか、自分自身も差別する側だという形で取り組まれ、最後に書かれたものです。最後のまとめの席では「日本人は戦争責任・戦後責任の問題として民族差別のきちんと付き合おうではないか」と語っておられました。 この問題はこれで終わったわけではありませんが、岡村さんの徹底してマイノリティの立場に立たれる姿勢には感動しました。だからこそ、一応の総括ができたと思います。もちろん、当時日高六郎さんが教育総研の所長でしたが、渡仏中のできごとであるにもかかわらず真摯な立場で対応されました。
それから教育基本法「改正」の取組ですが、多くの日とが教育基本法改悪反対というなか岡村さんは一貫して「改正」反対といってきました。時宜に応じて本がたくさん出される中、私も同じ形で一冊出しましたが、岡村さんは「教育基本法『改正』とは何か~自由と国家をめぐって」(インパクト出版会)を出しておられます。 その教育基本法「改正」反対運動には47教育基本法を丸ごと守ろうというよう大きな流れがありました。その中心には小森、三宅、大内、高橋さんがいました。岡村さんはあの4人組に任せちゃ駄目だと言われていました。
私は障害者、中でも知的障害者にかかわるなかで、以前から能力差別を許していることに疑問を感じていました。これは憲法とも関係がありますが、第三条には「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける教育を受ける機会を・・・」となっています。、その能力に応ずるを削除して「ひとしく教育を受ける・・・」とすべきと思っていました。2項の奨学の方法も同様ですが、むしろひとしくをめざすなら遅れている人には2倍も3倍も支援したらいいのではないかと思っていましたし、折に触れて発言もしてきました。しかし、運動が大衆化するなかで段々言いにくくなってきました。いま、現行法(47法)び批判をすることは改正派に与することになるからやめろと仲間から糾弾されることもありました。
そんなとき岡村さんは、長年の主張である第一条の教育目的で、国家が教育目的を決めていることによって、教育が国家の管理機構になっていりという批判とともに第三条の能力主義を指摘して同感の意を示してくださいました。私はそれによって意を強くすることができました。ある日、国会前集会でそのことを話したとき、障害を持つ人々が集まって喜んでくれました。丁度、障害を持つ人たちが自立支援法の問題で国会でのロビー活動や日比谷野音で集会を開くなど結集している時期で教育基本法「改正」反対運動にも合流してくれていました。彼等は「よかったーっ」と言ってから、「能力の問題もそうだけど、なろうとしてなれなないわれわれにしてみれば第一条の「心身ともに健康な国民の育成・・・からして埒外におかれている」などと語ってくれました。岡村さんの励ましにより私が自信を持って発言でき、障害者の人たちとも連帯できたのです。「改正」されても、細々ながら「教育基本法を元に戻そう」という運動はありますが、よりマシにしようという姿勢でかかわっていきたいと思っています。
このメモの最後には「日の丸・君が代処分撤回裁判支援活動」と書いておきましたが、これは、岡村さんが『処分論―「日の丸」「君が代」と公教育』(インパクト出版会 1995)にも書いてらっしゃるように、たくさんんお闘いの支援をしてこられたのですが、東京でもずいぶんお世話になりました。あとで福岡陽子さんからお話があるかと思いますが、かなりお体の具合がよくなかった時期だったと思いますが、どうしても岡村さんにお願いしたいということでお電話しました~私としては、他の事案ですが岡村さんの提起された事に応えきれていないことがあってためらわれましたが~電話に出られて岡村さんは「最高裁ですか・・・」と言われて随分考えておられたようですが、「やります」とおっしゃってくださいました。引き受けたからにはきちんと当該の方とお話したいからと、わざわざ上京されて実情を把握した上で取り組んで下さいました。このことは他の裁判支援についても同様ですが、本当に真摯にそれぞれの原告の立場に立って意見書や陳述書を形にして下さっています。これからもたくさんお願いしたいことがあるのに、大変残念なことです。
宮寺 北村さんありがとうございました。北村さんのレジュメにある項目一つ一つ取ってみましても、進歩的な知識人と言われる人たちやそれから労働組合の人たちもそれなりのかかわりをしていたのかもしれませんが、岡村さんはそういう人たちの進歩性を疑って、もっと本質的な支援をした、もっとラジカルな観点から支援をしたということだろうと思います。ときには支援者がいない訴訟にも手弁当で駆け付けて、それで原告側の味方をしてきた。多少ちょっと私ごとになってしまうかも分かりませんが、北村さんのレジュメの一番下に書いてあります「日の丸・君が代処分撤回裁判支援」でありますが、ちょうどこれに岡村さんがかかわろうとしているそのとき、私はある学会誌の編集にかかわっていて、岡村さんに原稿を依頼したことがあります。そのとき岡村さんからの返事は、自分はもう体力が尽きるギリギリなのだと。最後の残っている体力はもう学会に対する奉仕よりも、今困っている一番自分を必要としている人のために使い果たしたいと、そういう返事だったです。この裁判はまだ続行中で決着がついていないわけでありますが、岡村さん自身、一番最後の最後にこの裁判闘争にかかわって命が尽きたということで、こんな言い方をすると、奥さんには失礼かと思いますが、ある意味で岡村さんは本望だったと。一番自分が力を尽くしたいと思っているところに力を尽くして、それでそこで命が尽きたというので、岡村さん自身からすると「まあ、やるだけのことはやった」という気持ちで旅立って行ったのではないかと、陰ながら思います。どうもありがとうございました。それではこれで一応4人の方による報告は一段落させていただきます。
(休憩)
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<岡村達雄さん年譜>
1941年 5月 9日 東京都生まれ
1966年 3月31日 早稲田大学第2文学部露文学科卒業
1966年 4月 1日 東京教育大学大学院教育学研究科修士課程教育行財政学専攻入学
1969年 最初の単行本・持田栄一編著『講座マルクス主義 6 教育』(日本評論社)
1970年 9月19日 弥生さんと結婚。
1971年 長男・継史さん誕生。
1973年 3月31日 東京教育大学大学院教育学研究科博士課程教育学専攻 単位取得退学
1973年 4月 1日 長崎大学教育学部に助教授として着任
1974年 女・あゆのさん誕生
1976年 9月 最初の単著『教育労働論―公教育の構造と官僚制』(明治図書)
1977年 日本教育行政学会理事(~2000年)
1982年 5月25日 『現代公教育論』(社会評論社、増補改訂版は1966年)
1983年 4月 1日 関西大学文学部に教授として赴任
1983年 5月31日 編著『『教育のなかの国家 現代教育行政批判』(勁草書房)
1986~88年 編著『教育の現在―歴史・理論・運動』(社会評論社)
1995年11月 『処分論―「日の丸」「君が代」と公教育』(インパクト出版会)
2002年 1月31日 編著『日本近代公教育の支配装置―教員処分体制の形成と展開をめぐってー』(社会評論社、改訂版は2003年)
2004年 5月15日 『教育基本法「改正」とは何かー自由と国家をめぐって―』(インパクト出版会)刊行
2007年 3月31日 関西大学を定年により退職
2008年 7月 8日 逝去(享年67歳)
主要著作目録
1973年12月 「教育労働と公教育」 持田栄一編著『教育変革への視座』(田畑書店) 1975年 3月 1日 「福祉国家の教育像 日本」 持田栄一・市川昭午編著『教育福祉の理論と実際』(教育開発研究所)
1976年 9月 最初の単著『教育労働論―公教育の構造と官僚制』(明治図書)
1980年 4月30日 日本臨床心理学会編・共著『戦後特殊教育 その構造と論理の批判』(社会評論社)刊行
1982年 3月31日 編集・解説『教育実践の記録 別冊2 現代教育論争』(筑摩書房)
1982年 5月25日 『現代公教育論』(社会評論社、増補改訂版は1966年)
1983年 5月31日 編著『『教育のなかの国家 現代教育行政批判』(勁草書房)
1986年 5月27日 『養護学校義務化以後―共生からの問い』(柘植書房)
1988~89年 編著『教育の現在―歴史・理論・運動』全三巻(社会評論社)
1988年1月30日 第一巻『戦後教育の歴史構造』
1988年11月30日 第二巻『現代の教育理論』
1989年11月 第三巻『教育運動の思想と課題』
1988年9月26日 伊藤和衛編著・岡村達雄編集協力『講座 公教育体系1 公教育の理論』(教育開発研究所)
1990年10月 共著『教育の解放を求めて』(明石書店)
1994年 4月 共編著『学校という交差点』(インパクト出版会)刊行。
1995年11月 『処分論―「日の丸」「君が代」と公教育』(インパクト出版会)
1999年 6月 「教育裁判としての『君が代』訴訟の位置と特色 」 「君が代」訴訟をす すめる会篇『資料「君が代」訴訟』(緑風出版)
2002年 1月31日 編著『日本近代公教育の支配装置―教員処分体制の形成と展開をめぐってー』(社会評論社、改訂版は2003年)
2003年 2月 共著『人権の新しい地平』(学術図書出版社)
2004年 5月15日 『教育基本法「改正」とは何かー自由と国家をめぐって―』(インパクト出版会)刊行
2005年3月15日 岩手にて 中央が岡村達雄さん( 元井一郎さん提供)
大会案内(抄)
今年も、第 26 回目となる糖原病協会全国大会が開催されます。このイベントは常に、友好的な人々と出会い、新しい人々と出会い、経験を共有し、知識を交換して深め、重要な科学の進歩や発見について最新情報を得る重要な機会となってきました。 時間が経つにつれ、多くの変化が起こり、私たちは同じ旅を経験し、私たちと同じような課題や問題に毎日直面している他の人々とより簡単につながることができるようになりました。
もちろん、今では情報はずっと早く広まりますが、同じグループの一員であることを実感し、支援を得るために、直接に会う時間と機会を得ることができるという価値はいつも大切なことです。
まさにこの時間とこれらの側面が重要であることを踏まえ、私たちは、交流を促進し、自分の経験を語り、比較し、自分自身を(再)発見する機会を提供できるように、余暇、自由な時間、または顔合わせや共有する時間を企画しました。
私たちは、このイベントが参加者全員にとって素晴らしい経験となること、またその企画と実施が参加者全員のニーズに最大限に応えるものとなることを願っています。 この日は、すべての活動に簡単に参加できるように、次のように企画してみました。 •
10月5日(土曜日 ): 午前中は、参加希望者のためのいくつかのグループ活動に充てられます。午後には集いを持った後、食前酒を伴いながら意見交換と共有のための場を設け、リラックスして全員が顔を合わせて経験を共有できるようにしています。
10月6日( 日曜日): 午前中に最後のスピーチがあります。会議は午前遅くに終了する予定です。 ライブに参加できない人向けに大会全体の録画を作成し、講演者からの許可があれば、数週間後に YouTube チャンネルで公開するようにします。これは、物理的に参加できない人の間でも情報が確実に拡散されるようにするためです。。大会をリモートでフォローする可能性に関する情報は近々お知らせします。
<大会プログラム>
10月5日 土曜日
10:00-12:00 適応理学療法による訓練
希望者なら誰でも参加できるように、適応理学療法訓練を実施します。広い専用の部屋があり、 TuVaiCheYou の理学療法士と専門家がアクティビティをフォローします。 TuVaiCheYou は、デボ ラ ドマスキオとマッテオ フラジェーリのアイデアから生まれた、モデナに拠点を置く会社です。長年にわたり、その一員である専門家チームは、あらゆる面で人々をケアし、すべての人のニーズを尊重する真の完全なアクセシビリティの必要性に対する意識を高めるために、神経リハビリテーションとアクセシブルな観光に取り組んできています。
10:00-12:00 患者・介護者の声を聴く会
本協会の「健康ドック( Cantieri del benessere)」という取り組みの最後に、AIHCが主導する患者と介護者のための傾聴の会に参加したり、可能な活動に関する情報を収集したりすることができますこれは、興味があれば後からでも参加できるアクティビティです。 AIHC ( Associazione Italiana Health Coaching) は、精神物理的健康の文化を広めることを目的として、コーチ、コンサルタント、専門家のアイデアから 2017 年に誕生しました。このデリケートな分野で支援が必要な人々の生活の質を向上させるために、ヘルスコーチング教育および訓練サービスを企画および提供することに取り組んでいます。 AIHC は、作業グループ内で個人的および社会的エンパワーメントを広め、実践することを目指しています 。人々に自分の精神的・物理的状態をより深く認識してもらい、良好なレベルの幸福と健康を維持するための新しい方略を見出すことを目的としています。
10:00-12:00 ケトジェニック・ダイエットのためのレシピ付き料理教室
栄養士のロベルタ・プレテーゼ博士、小児科医のヴィオラ・クレッシテッリ博士、シェフのアレッサンドロ・スピナがケトジェニックダイエットのレシピに焦点を当てた料理教室を開催します。
12:00-14:00 昼食休憩
15:00-17:30 第一室 肝型糖原病の集い
14:00-18:00 第二室 筋型糖原病の集い
18:00-19:00 食前酒とおしゃべり
ライブ・チャットが行われる。これは、病気の診断や管理に関する共通の問題や困難について、希 望者が出会い、共有し、議論する機会ともなる食前酒つきのおしゃべり時間です。
19:00-22:00 夕食とお楽しみ会
10月6日 日曜日
09:30-12:00 第一室 肝型糖原病の集い
09:00-12:00 第二室 筋型糖原病の集い
12:00 閉会式
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2022年の全国大会からはYOUTubeで記録が公開されている。
これは2022年大会プログラムの一つと全大会の様子
本書をまだ読み終わてはいないが、これを読んでよかった。益軒にはよく知られたさまざまな著作があり、その中に、今どきの旅行ガイド的はものがあること、など興味深い指摘がある。またあの『女大学』を益軒が書いたというのは誤りであること、今でも読まれている『養生訓』は幼少期の益軒は身体が弱く病気がちであったからだという理由、などなども理解できた。
益軒は公務が多かったが京都に24回(これ利用し、各地を回ってもいる)、江戸に12回、長崎に5回旅をした福岡藩内の領地も頻繁にまわっている。まさに、本書にあるように「諸国巡遊」している。代表的な紀行文に『西北紀行」が知られている。また京都案内書とういうべき『京城勝覧』もある。
その中で39歳の時に結婚した当時17歳の初(後の東軒夫人)との生活について、本書は次のように紹介している。
「益軒は一六六八(寛文八)年三十九歳で東軒夫人と結婚し、一七一三(正徳三)年八十四歳、東軒夫人に先立た荒れる(この時、夫人六十二歳)まで、ひたすら夫人に愛情を注いだ。多忙な生活にもかかわらず、夫人の郷里秋月の実家の江崎氏との交際を深め、夫人とともに二度にわたる京都旅行を楽しんでいる。二人はこのように親密で晩年まで幸福そのものの夫婦であったが、子供は生まれなかった。本来、強健ではない益軒は、東軒夫人の死によって心身疲労と寂しさとから健康を害し、翌年に妻を追うように死去した。」
これを読み、「こんな益軒があの『女大学』を書くはずはない」と思った。しかし、『和俗童子訓』第五巻「女子を教える法」を再吟味する必要がありそうだ。
<続く>