足利学校第七代庠主(校長のこと)は大隅国からどのルートを通って下野国まで向かったのか?

*これまでアメーバブログに書いたものをまとめみた。伊集院九華の足跡はいまだにつかめていない。


2019年6月12日

何年前になるか記憶が定かではないが、足利学校を始めて見学した時のことである。校内の一角に「字降松」(かなふりまつ)という松の木があり、その説明に、この第七代庠主(校長のこと)のことが書いてあった。

 驚いたのはそこに書いてあったエピソードではなく、彼の出身が大隅国と書いてあったからである。大隅国とはいうまでもなく、今は鹿児島県の大隅半島を中心とする地域である。調べてみると、彼(1500-1578年)が庠主になったのは1550年。その後、29年間も同職にあったとのこと。

 今からやく470年前に、日本本土の南端から、今の栃木県足利市まで行ったというそのことに、驚いたのである。というのも、私が大隅半島の中心地鹿屋の出身だからである。1966(昭和41)年に鹿児島の高校を卒業し、東京の大学に入り、休みの度に帰鹿する際、その距離の遠さに苦労した経験とは比較にならない時代のことである。

 なぜ、どのような足取りで足利の地まで行ったのか?それが知りたくて、ネットだけであるが、調べても、彼の生涯を扱った資料をまだ見つけることができないでいる。

 古文書しか出てこなかったらどうしようか、と思案中

2019年7月28日

この最初のブログで書いたのが、足利学校の第七世庠主の玉崗瑞璵九華の30年間にもっとも栄えたといわれたている。その玉崗瑞璵九華が、実は私と同じ大隅国の出身であることは、かなり以前に足利学校を見学した時に知っていた。となると、知りたいのは、彼がどうような理由と過程で、大隅から足利の地まで行ったかということ。

 しかし、古文書を読み解く力は残念ながらない。そこで、彼のことがどこまで知られているのか、彼のことを記した研究はないのか、とネットの限りであるが、調べてみた。しかし、ほぼ情報を得られない。

 そこで、どうしたか。実は高校時代の知人で、近世から近代にかけての日本の歴史を研究し、全国的にもよく名前がしられている人物に手紙を出し、鹿児島県史のなかで扱われているのかいないのかを問い合わせをしたが、お忙しいらしく、さっぱり。

 その疑問は残ったまま、実はもう一つ気になっていたことがある。ザビエルが足利学校を「坂東の大学」として紹介した文書のなかに、「ミヤコの大学以外に、高野、根来、比叡山、近江に大学があったと記していたが、高野と比叡山以外にそれらが具体的に何をさしているかがわからなかったのでる。

 ところで、つい先日、貴重な文書を発見した。それは高野山大学の山陰香春夫さんの「中世の高野山大学をめぐるー檀上伽藍探訪」という講演文書(

http://bukkyo-toshokan.jp/activity/pdf/lecture_11_02.pdf)である。詳しくはそれをぜひ読んでいただきたいが、中世の最高の知識人は僧侶であったから、僧侶がお互いに切磋琢磨しながらさまざまな探究を重ねていく場が、近畿を中心にたくさん存在したのであろう。

足利学校校内マップ

https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/shisekimap.html

 

もとより、上杉憲実が再興した足利学校の初代庠主は鎌倉の円覚寺から読んだ禅僧快元(かいげん)だったことを考えれば、鎌倉の寺院も大学的役割を果たしていたのは確かであろう。

 それにつけても、知りたいのは、玉崗瑞璵九華という人物のことである。

*中世の高野山大学をめぐるー檀上伽藍探訪」より

2019年10月10日

このブログの第一回目で書いたのが「足利学校・第七世庠主・玉崗瑞璵九華(きゅうか)のこと」で、内容的にはもっと彼のことを知りたいが、しかし、ネットではなかなか資料が出てこないというものだった。その後、高校時代の旧友で日本史研究者に問い合わせの手紙を書いたのだが、どうもうまくいかなかった。

 そのうち、わがふるさと鹿屋市花岡町のことをネットで調べていたら、私の関心にぴたりのブログを見つけることができた。どうなら古代の歴史研究者であること、そして、大隅半島の歴史を研究するグループが存在することが分かった。

 そこでそのブローガーの方にメールを出し、聞いてみたところ、丁寧に応じてくださった。概略は鹿屋市・前編に「伊集院九華」のことがかかれていること、詳細は大隅史談会の研究誌「大隅」創刊号に、初代会長が「大隅の鴻儒・九華と足利学校」という研究論文を発表されていることを教えていただいた。

 まさに喉から手が出るほどに読んでみたい資料。紹介してくださった方もまだ見ていないので、もしかしたら国会図書館にあるかもしれないという助言されたので、調べてみたが、収蔵されていなかった。

 そこで、国会図書館のサイトで調べられる全国の図書館の蔵書を調べたところ、鹿児島県立図書館に2冊あることが判明。もちろん、はやる心でコピーを依頼した。

 鹿児島県立図書館からは費用が示され、それを受けての依頼ということになる。いつ届き、読めるのか、期待をもって待つことにする。

 今回アドバイスを頂いた方の「内之浦と藤原惺窩(肝付町内之浦南方)」と題するブログも興味深かった。内之浦は母方の祖母が出身地であり、鹿屋市中心からはかなり離れている。そんなところに江戸時代、朱子学の藤原惺窩が立ち寄ったというのである。

 昔人の行動力には驚かされるばかりだ。

2019年10月17日

自分が調べたいと思っていた資料が見つかると、こんなうれしいことはない。ネット検索で知った方が、鹿屋市史の当該部分をコピーして送ってくださった。ありがたい限りである。

その見出しは「大隅の生んだ伊集院九華」であり、次の見出しは「戦国学問の保持者」となっている。短い文章ではあるが、今まで分からなかったことが多く書かれている。

 1.伊集院九華まれは大隅国であるが、末吉か垂水か、まだわかっていない。

 2.1531(享禄)四年の34、5歳に関東に上り、当時学問の府といわれた足利学校に入学

 3.学問に専念して、3、4年で頭角を現し、天文六年38歳の時に、京都東福寺での修養者に選ばれ、一年間学び、優秀な成績をおさめる。

 4.天文十年、51歳にして庠主

 5.その指導は懇切丁寧で、それぞれの才に応じて真摯な態度で教育した。

 6.永禄三年、61歳になり、家郷がなつかしくなり、足利を出るも、小田原で北条氏康に引き留められ、帰郷を断念させられ、足利に戻る。

 この文章では最後に、九華が帰郷したとしても、戦乱の渦中にある大隅を含む地方では彼の学問を受け入れる余裕はなかった、つまり、彼が足利に残ったことが彼の学問を生かすことになった、と評価されている。

  私は京都や鎌倉で学んだあと、足利学校に招かれたのではないか、と推測していたが、そうではなく、大隅から足利に直行したようである。私が生まれた大隅から東京に出てくるもの、学生時代には大変だったのに、当時、どのようにしてたどり着いたのであろうか。彼がどんな思いを抱いて、どんな旅をしたのか、何日くらいかかったのか、などなど知りたい。

 また当時の伊集院家は武家だったのか、彼はそこから出家して僧になったのかもまだ分からない。

 また彼の学問の神髄は何であったのか、ということや、彼が書き残したものは何かあるのかも。

 今、鹿児島県立図書館に大隅史談会の「大隅」創刊号に該当論文コピーを依頼中である。それを読むと、もっと詳しいことが分かるだろう。わくわくしながら、それが届くのを待っているところである。

 教師、指導者としての九華についてのエピソードを残している木が足利学校にある。それが写真にでてくる「字降松(かなふりまつ)」。詳しい話は「足利学校HP」で紹介されている。

字降松(かなふりまつ)

 https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/uploaded/attachment/13461.swf

2019年10月25日

ついに鹿児島県立図書館からコピーが届いた。約16頁の短い文章である。文題は「大隅の鴻儒九華と足利学校」であり、著者は永井彦熊(大隅史談会初代会長)とある。冒頭部分には「文華一輪荒んだ戦国時代に光彩を放つ足利学校の司業(庠主、校主)が我が大隅より出でたる学者に継承された吾国戦時代の文学が実に三州の人々によって保たれたしことに想到すれば転た吾人の誇りを感じ愉悦を覚えるものである。」との記述がある。

 読めなかった「転た」を調べると、「うたた」と読むらしい。三州とは南九州の日向、薩摩、大隅である。またここに「文学」とあるが、これは学問あるいは儒学と置き換えていいだろう。

 続いて足利学校創設の起源にふれた後、足利学校と三州人について書いてある。それによると九華以前に、三州(琉球を含む)から足利学校に学んだ学者を挙げている。起雲、天府、天澤、湯岑、玉仲などがいたが、九華はその中でも群を抜いていたとある。

 彼については「郷里に於いての行為は全く不明であり研究の余地がある」と書かれている。この永田さんの指摘以降の研究は、しかし、なさそうである。

 九華の教育者としての一面は、「字降松(かなふりまつ」のエピソードとして有名であり、すでに本ブログが書いたので省略する。

 儒学を中心とした足利学校であるが、当時の世相を反省して、実は易学も盛んであった。九華はこの易学にも通じていたと紹介されている。

 しかし、「残念なことには九華の詩九編九華の文が一篇も残っていないというのは惜しんでも余りあるところで、其の人となり学問等も知る由もなく、只僅かに弟子等の詩により、或いは奥書により、或は足利学校由緒記等により其の片鱗を窺うより他にない。」という状況にあった。

 彼が育てた人物はそうそうたるものであったことも記されている。

 ところで、三州には桂菴 玄樹(1427年(応永34年)- 1508年6月28日(永正5年6月1日))が学問の土台を作っていた。それを「薩南文学」というらしいが、それはまた後日とりあげることにする。

https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/rekidaishoushu.html

2020年6月13日

 さて、最初に書いたブログは「足利学校・第七世庠主・玉崗瑞璵九華(きゅうか)のこと」だった。初めて足利学校を訪れた時、足利学校の最盛期の校長・玉崗瑞璵九華(きゅうか)が大隅国の出身であることを知って驚いた時の気持ちを書いたもの。

 その後「やっと分かった、足利学校以外の中世の大学(2019年7月28日)、10月10日「ついにたどり着いた:足利学校第七世庠主(校長)のこと」(10月10日)、「またまた足利学校第七代庠主・玉崗瑞璵(伊集院)九華のこと」(10月25日)を書いてきた。

 そして、以下のような記事を発見したのだが、今日までこれをブログで紹介することはなかった。歴史研究家の桐野作人をもってしても、九華の生い立ちがつかめない。

*以下の文章は

http://blog.livedoor.jp/kouyama2012/archives/3794329.html

で知ることができた桐野作人が南日本新聞2012年1月16に寄稿したものである。

「・・・足利学校では入学者に僧俗、身分を問わず学徒名を与えた。九華も学徒名で、実際は臨済宗の僧侶で玉崗瑞璵(ぎょっこうずいよ)という名だった。

 九華は大隅出身で、伊集院氏の一族だという(倉澤昭壽「足利学校学徒考」)。大隅から遠く離れた北関東で足跡を残したのだから、よほどの学識の持ち主だったのだろう。

 現在、同校の鎮守として稲荷大明神が現存しており、九華が再建したという棟札(むなふだ)が残っている。その棟札には「大隅産島津的孫伊集院一族瑞璵九華」と署名されている。

 九華の出自や出身地がどこか興味をもって調べてみた。伊集院氏は島津氏二代忠時から分かれた古い家(島津伊集院氏)だが、本家から分家、そのまた分家などを含めると、じつに七十一流を数える(川崎大十「「さつま」の姓氏」)。

 そのうちから大隅在住の伊集院氏に絞って、伊集院氏の比較的信頼できる系図(「旧記雑録拾遺 諸氏系譜一」など)で探してみたが、残念ながら九華は見当たらなかった。十六世紀前半より以前の系図は簡略で、当主以外の庶子がほとんど掲載されていないためである。・・・」

 九華にまつわるものに字降松(かなふりまつ)があるが、そのエピソードを分かりやすく説明したものはここにある。

https://www.city.ashikaga.tochigi.jp/uploaded/attachment/13461.swf

 私は九華の出自や生家だけでなく、わが大隅国からどのようにして足利学校まで向かったのが、どのくらいの日数がかかったのかなども知りたいのである。果たしでそれが分かる史料があるのだろうか。

関連資料

1. http://blog.livedoor.jp/kouyama2012/archives/3794329.html

2. 足利学校の七世校長・九華: news (seesaa.net)

2022年4月7日

アメーバ・ブロガーのお二人を通じて、私の故郷、大隅の昔、つまり大隅国について興味深いことを教えていただいた。

 古代大隅国については苅谷俊介さんが古代日向国についての解説で触れていただいており、少しずつ、大隅国の歴史をこの年齢になって辿っている。

 拙ブログの第一回に書いたのは、足利学校が一番栄えた時の第7代校長(当時は、第7世庠主(しょうしゅ)であった玉崗瑞璵(伊集院)九華が大隅国の出身であることに驚いたことについてであった。が

 それ以後、鹿児島県立図書館に資料のコピーを依頼したりして、足利学校時代のことはつかめるようになったのだが、大隅国のどこで生誕したのか、どうやった学問を身につけ、やがて、どういう道のりで足利までいったのかは、皆目分からないままでいる。

 ところが、 fusan78さんや古代史研究所さんのブログで、あの鎌倉の建長寺を開山した宋の高層・蘭渓道隆は鎌倉に行く前に大隅国に滞在し、「道隆寺」(大隅国肝属郡高山)という寺を開いたことを知った。

そこで、いろいろ調べてみると、何と同じアメバのブロガーである古代文化研究所さんが詳しく書いていらっしゃることを知った。

柏尾山道隆寺 | 古代文化研究所 (ameblo.jp)

 そこで、蘭渓道隆(来日は1246年)がどういうルートで大隅国に入り、そこから鎌倉に向かったのか、何か記録は御存じないですか、と問い合わせたところ、次ようにおしえていただいた。

「私が見ている史料は、「元亨釈書」のみです。少なくとも、「元亨釈書」には、そういう記録はありません。意外に、蘭溪道隆の記録は短文です。/○現在、世の中に流布しているのは、福岡からの話になります。しかし、その前に、蘭溪道隆が鹿児島に居たことを裏付けるのが、柏尾山道隆寺になります。/○当時の鹿児島は、仏教文化の最先端だった時代になります。この後、鹿児島では桂庵玄樹が出て、薩南学派が誕生します。」

 この桂庵玄寿が島津氏に大隅にきたのが1478年とある(正確な年代は後日に)。

 うーーーーん

 ここでつながりそうだ。伊集院九華が足利学校長になるのは1500年。となると、かれはその以前に大隅で生まれ、この薩南学派が活躍していたころに育っているのではないか。

 とすると、薩南学派を詳しく調べてみると、伊集院九華のことが少しは分かるかもしれない。

 と思ったところで、思考停止。

2022年5月28日

岩波文庫の『聖フランシスコ・デ・サビエル書翰抄 下巻』には、足利学校に触れたところが二か所ある。その一箇所がこれである。

同書52頁

(都には)一つの大きな大學があって、その中に五つの学院が附属しているという。

都の大学の外に、尚、有名な学校が五つもあって、その中の四つは、都からほど近い所にあるという。それは高野(64)、根来寺(65)、比叡山、近江(66)である。どの学校も、凡そ三千五百人以上の学生を擁しているという(67)。しかし日本において、最も有名で、最も大きいのは、坂東(関東)であって(68)、都を去ること、最も遠く、学生の数もはるかに多いという。坂東は非常に大きな領地であって、そこに六人の公爵が居るが、その中の一人が最も有力で、外の五人は彼に従属し、又此の有力な公爵は、日本国王に従属している。

(64)高野山。真言宗の大伽藍

(65)根来寺。比叡山に三千八百の寺院あり。信長に破壊せられ、残存せるもの四百寺。

(66)木部(近江)の近城寺。浄土真宗の寺。

(67)三千五百の学生とは数があまりに大きい。恐らくその地の住民の数ではないか。

(68)坂東の足利学校。関東下野にあり。

この紹介文を正確に理解するにはかなりの歴史的知識が必要。

①都の大学とそこに附属する五つの学院とは何か・・・京都五山ではなさそう(後に京都五山のことと判明)

②六人の公爵とそのなかの有力者は誰か・・・長らく関東管領をつとめた上杉家か?

これから詳しく調べることにしたい。

ところで、足利学校の校長とその出身地一覧をみると全国的ではあるが、初期は九州が多い。何故だろう?はるばる九州から、どんな風に足利まで行ったのだろうか?

もっと調べなくちゃ・・・

足利学校歴代庠主一覧 - 足利市公式ホームページ (city.ashikaga.tochigi.jp)・・後半は略

2022年5月29日

足利学校第七世庠主玉崗瑞璵九華(ぎょくおか・ずいよ・きゅうか)、俗名・伊集院九華は大隅国の出身で、その期間は1550年から29年間であった。

かれが、いつ、どのような方法で、大隅国から下野国までいったのか?

この疑問について、一時期、彼が僧侶であったことを考え、各地の寺を訪ね、問答などして、宿泊しながら向かったのではないか、と考えたことがある

しかし、5月27日の拙ブログで紹介した「永禄六年北国下り遣足帳」について (rekihaku.ac.jp)では、以下のような説明(下線、引用者)を読むと、陸路の旅籠も利用していたこともかも知れない。大隅国から日向国をとおり豊前国まで陸路をたどり、そこからは瀬戸内海航路を使って大阪へ。大阪からはまた陸路を使って下野まで、と考えられそうである。

「・・・これまでよく紹介されてきた中世の旅の記録と言えば、連歌師、公家、大名の家臣といった、お金を払って宿泊するのではなく、領主の館や寺院など、地元の有力者のもとに宿泊して旅を行っていた場合が多かった。そのことが、中世の交通施設が未発達であるかのような印象を与えていたのだが、基本的にお金をはらって旅をする人間の記録で見れば、この通り、旅籠や昼食をとる場所は、実はどこにでもあったのである。北関東の空白期間の部分でも、利用していないだけで、旅籠などは当然あったに違いない。

 一五世紀末ころ、漂白の禅僧万里集九(ばんりしゅうく)が記した漢詩集『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』にも、『遣足帳』と一致する旅宿がいくつか見えるが、これもお金を払わずに泊まれる場所がなかった時だけ旅籠を使っていた、と考えるべきであろう。街道沿いの宿泊施設は、ところどころにあっても役に立たない。毎日次の宿を当てにできるから旅を行えるのであり、そうした旅の需要が広汎にあるから宿屋が成立するのである。後述するように、旅籠の料金は非常に広い範囲で一定しており、これも、広汎な旅の需要と供給の結果としか考えられない。

 応永二六年(一四一九)の東寺~兵庫間の旅の記録でも、宿泊は毎日旅籠で行っている。一五世紀代には、すでに日本のかなりの部分で、このような宿泊システムが成立していたと見なすことができよう。一般人の旅が盛んになるのは、江戸時代に入って幕府が街道を整備してから、と考えられがちだが、むしろ、中世段階で自然発生的に成立していた旅行のシステムと施設を前提にして、近世の交通体系が作られていったと考えるべきであろう。」

この地図は「永禄六年北国下り遣足帳」」から分かった「永禄六年(一五六三)の秋九月、京都の醍醐寺から北国に向かって旅立った僧侶」に足跡である(上記サイトからの引用)。

コメント

1苅谷俊介さん

地図は〝北国下り道〟ですので、伊集院九華が辿った道程には全面的に当てはまるものではないことは周知のことと思います。

また時代が遡りますが、万葉に

『信濃路は今の墾道 刈りばねに足踏ましむな 沓はけ我が背』

という歌があります。信濃路は、10年かけて713年に開通した木曽街道(東山道・中山道)のことで、想像ですが上記の歌は長野上田市と群馬吾妻郡の境にある〝鳥居峠〟のことだろうと考えています。伊集院九華のルートに参考になるかと思い記しました。

今一つ、以前ブログに載せましたが平忠度の歌

『行き暮れて木の下陰を宿とせば花や今宵の主ならまし』

これは、いつもならちゃんともてなして泊めてもらうところがあるのだが、落ち武者となった今では桜が主としてもてなしてくれる。

という意があります。

伊集院九華に泊まる旅籠が見つからないとしても、僧侶であることだけで一行(?)は、村の名主や有力者の家を宿にすることができたのではないでしょうか。

あくまでも想像です。


2.フォルナリーナさん

九華は、江戸時代に整備された「中山道」の前史である、「東山道」を(一番近道かも?)旅なさったのかな??などと妄想し、検索してみました。

・・・・・・・・・・・・・・・・

*wikipedia 江戸時代に整備された「中山道」「それまでの東山道の街道を改良したものが多かった」https://ja.wikipedia.org/wiki/中山道

*東山道(とうさんどう)とは

https://www.sakaekai.net/pageR3.html

古代日本の中央政府は、飛鳥時代から平安時代の前期にかけて、計画的に道路を整備した。地方では6メートルから12メートルの幅があり、京の都周辺では24メートルから42メートルの幅員を持った直線道路であった。

東山道は、奈良時代に中央と地方を結ぶために、政治的に造られた国道であった。古代の五畿七道の一つで、いわゆる官道の名称であった。

*大阪から、滋賀まで行けば、東山道の起点である「瀬多(瀬田・近江の国 滋賀県)」で、

終点は、宮城県の多賀城です(のちにY字状に分かれる)。

*ルート

国府・近江国(滋賀県 / 瀬多)→美濃国(岐阜県南部)→飛騨国(岐阜県北部)→信濃国(長野県)信濃国府

→ ★上野(群馬県)→ ★下野国(栃木県)

→岩代国(福島県内陸)→磐城国(福島県沿岸)→陸前国(宮城県)多賀城国府→出羽国(山形県・秋田県)・陸奥国(岩手県)

*wikipedia 「東山道」

「律令時代の東山道は・・」

https://ja.wikipedia.org/wiki/東山道#道(みち)としての東山道

*栃木県上三川町のサイト

「古代下野国と東山道ルート」

https://www.town.kaminokawa.lg.jp/0137/info-0000000926-0.html

*古代 東山道「この廣拯院は昔、旅人の宿であった」

https://blog.goo.ne.jp/yutaka-0599/e/a6a949731b5cb1cdc024beeed54ab588

*「東山道武蔵路」については上野国の新田駅付近から本道と分かれて邑楽郡を通り武蔵国に入る

https://www.asahi-net.or.jp/~ab9t-ymh/touzando-m/T-route.html

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