嶺井正也氏聞き取り記録 2016年12月23日 銀座ルノアール 飯田橋西口店 貸会議室 聞き手 広田照幸、香川七海、松嶋哲哉
*録音掘り起し原稿に若干修正を加えている。分量が多いので何回かに分けて掲載
第2次教育制度検討委員会について
広田 まず、1980年代の第2次教育制度検討委員会のことです。制度検討委員会及びそのメンバーと、それから、日教組がつくってた国民教育研究所とそのメンバーの関係についてあらためて教えてください。それが一つ目です。これは結構みんなちょっとよく理解できてないところがあるんですね。
嶺井 第2次教育制度検討委員会の委員は、大学の研究者が中心でしたが、森田俊男さん(所長)と木下春雄さん(研究所員)が国民教育研究所(民研)の方でした。伊ケ崎暁生さんは、ここに入ってなかったと思います。 広田 そうですね。伊ケ崎先生が入ってなかったのは何か理由があるんですか。
嶺井 伊ケ崎さんは行財政専門でしたが、この委員会には行財政研究者が担小沢辰男さん(武蔵大学)、鎌倉孝夫さん(埼玉大学)、三輪定宣さん( 千葉大学)が入っていて、定員オーバーだったからかもしれませんが、定かではありません。どういう経緯か分かりませんが、制度検討委員会は民研のメンバーと重なっているわけではありません。
広田 民研側のメンバーとまったく重なってしまうのを避けたとかがあるんですかね。制度検討委員会は、日教組の直属というか、そういうことですよね。
嶺井 それはあったかもしれませんね。
広田 担当は、教文(教育文化局)ですか?
嶺井 そうです。
広田 そうすると、教文が直轄で制度検討委員会を動かし、民研は民研で一部分、教文との関係を持つみたいな、そんな感じですかね。
嶺井 そうですね。
広田 制度検討委員会のときに、民研の話題とかって出たりしなかったですか。
嶺井 制度検討委員会では、民研の話題は出てこないですね。
広田 出てない。
嶺井 はい。
広田 なるほど。じゃあ、そこにはそれなりに線が引かれてたっていうことですね。
嶺井 はい。
広田 はい、分かりました。二つ目ですけど、制度検討委員会の事務局担当はどなたでしたか。
嶺井 事務局長は小川(利夫)さんで、多分、運営委員会的なのものでした。
広田 報告書の巻末名簿に星印が付いてるのが事務局担当ですね。
嶺井 そうですね。海老原(治善)、中野(光)、堀尾(輝久)、。
広田 山住(正己)先生の名もありますね。
嶺井 この事務局でスケジュールだとか論点整理だとかいうのをやってたと思います。
広田 論点整理も事務局のほうでやってたんですか。
嶺井 そう。やってましたね。
広田 そうすると、会合を順次開いていって、それを事務局がメモとか、そういうかたちで取りまとめたんですか。
嶺井 いや、論点整理にもつづき草稿は、分科会ごとに出してきましたね。
広田 そうですか。じゃあ、事務局の役割は、どうだと考えれば。
嶺井 どういうふうに進めていくかとかマネジメントとか。
広田 運営のほうですか。なるほどね。分かりました。前回、報告書の内容をめぐって鋭く議論の対立があったとかっていう話は聞いたんですけど、進め方とか取りまとめ方とか、そういうところの対立みたいなものは事務局レベルで何か覚えていらっしゃいますか。
嶺井 私は事務局に入ってないので分かりません。多分、事務局レベルであったとすれば、海老原、堀尾の間ではあったかもしれませんが。
広田 分かりませんか。
嶺井 ええ。私たちのレベルでは、進め方とかについてはなかなか分かんないです。
広田 そうですか。報告書は1年数か月ぐらいで作ったと思うんですけど。
嶺井 そうですね。1年、2年弱だったと思いますね。
広田 ええ。そのスケジュールは、大体、最初の予定どおりの感じだったんですか。
嶺井 臨教審(臨時教育審議会)の前ですかね。
広田 前ですね。
嶺井 もうちょっと早く終える予定だったんじゃないですかね。途中で2回ほど、教科書問題と教免法改正についての声明を出したりしてますので、少し遅れたかと。
広田 当時、教科書問題、国際的に問題化していましたね。
嶺井 ええ。 広田 緊急で、それに対応しようというようなことで。
嶺井 そうです。山住さんがキャップでやってたと思います。
広田 それは教育制度検討委員会の名前で何か声明を出したということですか。
嶺井 そうです。
広田 なるほどね。
香川(七海) 教科書独自で委員会を立ち上げてましたよね。
嶺井 ええ、立ち上げてます。
広田 それは、声明を出す以外に何か報告書みたいなかたちになったんですか。
嶺井 検討委員会の報告書の中に、教科書に関する基本的な考え方は出てくる。
広田 そちらの中に入れ込んでるという感じですかね。
嶺井 ええ。そのままは入れ込んでませんけど、基本的な考え方みたいなのを盛り込みました。
広田 なるほど。そのうえで、制度検討委員会で僕が個人的に一番伺いたいのは、検討委員会の報告書が当時の研究者、研究仲間とか、そこら辺に与えたインパクトは何か覚えてらっしゃったらというんですか、あるいは今の時点からどう振り返るか。
嶺井 あんまりないんじゃない?やっぱり、第1次のときは、ものすごくありましたけどね。
広田 ええ? そうですか。だって、第2次もそうそうたるメンバーが集まって、かなりしっかりした・・・。
嶺井 メンバーには、すごい人たちがいっぱいいらっしゃいましたけど、報告書自体のインパクトは薄かった、と私は思っています。
広田 勁草書房から報告書は出版されていますが、ともかく本のかたちで出して世に問うたということですか。
嶺井 その前に、一応、日教組には白表紙で出していて、それから、『教育評論』(1983年9・10月号)にも載ってると思いますね。そのあと、勁草書房から出したんですね。第1次のときは、報告書を出して、それを冊子にして出版したら、かなり売れたんですよ。それで、小川さんとか海老原さんとかが何人かでヨーロッパを研究旅行してきた(笑)。それだけもうかったのです。第二次のほうはそんなことありませんでした。
広田 ああ、そうですか。たとえば学会関係のほうで、何かこれ(第二次の報告書)を採り上げるとかっていう動きはなかったですか。それもなかった?
嶺井 なかったんじゃないですかね。
広田 はあ。そう聞くとむしろ不思議に思えてきますね。つまり、1970年代までは、進歩的な教育学者が集まって、いろんな時期にいろんなかたちで世に問うていったと。1980年代も、こうやって出てるんだけど、それが当時の教育研究とか教育学者の議論の立て方とか、何か影響を与えてもおかしくなかったんじゃないですか。
嶺井 本来であれば、そうかもしれませんけど。
広田 堀尾先生なんかは、一番お元気な時期だと思いますけど。
嶺井 ええ。そうはいっても、報告書に盛り込まれたのは堀尾さん自身の個人的な見解だけじゃないですもんね。いろいろ交ざってるので、そういう意味では・・・。いや、うーん、ちょっと理由は分かりかねますが。
広田 なるほど。何か個人的に反響というか、「読んだけど、どうだった」とか、「もらったけど、どうだった」とか、そういう思い出はないですか。
嶺井 うーん。 広田 研究会でみんなで読んだとか。
嶺井 それもないんじゃないですか。
広田 それもないんだ。何かちょっと寂しいですね。
嶺井 寂しい。そのときの雑誌にどう採り上げられたとかいうのは、ちょっとフォローしてないので分からないですけど・・・。
広田 なるほど。
嶺井 いくつかの雑誌は採り上げたと聞いています。 広田 なるほど。
嶺井 私も、これからちょっとあたってみます。自分の中ではかなり批判的な思いもありました。第1次のときは外から見てましたので、出されたものを自分たちもかなりいろいろ検討したので、印象に残ってますけど。
広田 第1次のほうは、ですか。
嶺井 そうです。特に持田(栄一)先生中心の教育計画会議という研究会でやってましたので。
広田 なるほど。分かりました。
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