広田照幸他「戦後日本の教育労働運動の構造とそれが教育政治に与えた影響に関する実証的研究」に関連するヒアリング その2

 日本社会党「教育改革第1次案」作成について 


広田 その次の時期に進みます。前回のお話の中で、(日本社会党)教育改革第1次案を(日本)社会党が作ったときに、嶺井先生が協力されたという話でした。そこで社会党の議員のお名前がいっぱい出てきたんですけども、改革案作りの際に、当時のこういう議員さんたちは、どういうご意見とかご発言とかがあったんですか。そこら辺をちょっと教えてください。

 嶺井 発言はいろいろされていましたけれど、具体的にどうこうというのはよく覚えてないですね。   この中で言うと、久保(亘)さんと安永(秀雄)さん、中西(績介)さんが高教組(高等学校教職員組合)。馬場(昇)さんも高教組かな。木島(喜兵衛)さん、粕谷(照美)さんは新潟教組(新潟県教職員組合)だったと思います。馬場さんは熊本、久保さんは鹿児島、中西さんは福岡です。九州が多いんです。   このときは、ヒアリングを何カ所かやって原案を作っていきました。当時、社会党の政策審議会というのがあったんです。そこに渡辺博さんという方がいて、今、日野市の教育委員をされているんですけど、彼と相談をしながら原案を書いて、そこでこういう方々から意見をいただくっていうやり方が中心だったかな。

 広田 当時の社会党の政策審議会は、教育に関して独自の対案とかっていうのを考えるような土壌っていうのがあったんですか。

 嶺井 単発的には出してましたけれど、まとまったかたちではなかったですね。やっぱり、日教組のほうの出してくるやつを、国会なんかでどうフォローするかっていうのがメインだったと思う。

 広田 そうしたら、むしろ個別のその都度の問題について対応するという、そういう感じですか。

 嶺井 はい。

 広田 そうすると、ここで嶺井先生がまとめられた案とかっていうのは、こういう議員さんにしてみると、普段とは全然違うものに触れたみたいなかたちですかね。つまり、目の前の問題じゃなくて、もうちょっと改革のデザインみたいな話ですから。

 嶺井 だから、これを一緒に作ったメンバーは、そういうつもりで作ったわけでしょうけど、それを受け取った社会党の他の人たちがどう受け取ったかはよく分かりません。

 広田 なるほど。そもそもこれは臨教審に対抗しようという社会党からの考え方ですか・・・。

 嶺井 そうです。

 広田 そういう考えですね。

 嶺井 土井(たか子)さんが出てきたな。そうですね。ここには粕谷さんが居ますけど、やっぱり臨教審のことを考えていましたね。 

広田 なるほど。ああ、シンポジウムをやってますね。

 嶺井 そうですね。

 広田 太田(堯)先生もコメントされていますね。 

嶺井 後ろのほうに発言があります。ちっちゃなシンポジウムですけど。

 広田 なるほど。はい、分かりました。

 嶺井 社会党は、その前に、国際シンポジウムを開いたことがあって。

 広田 教育についてですか。 

嶺井 はい。そのときに、国研(国立教育研究所)のメンバーも協力してるんですよ。フランスやってた手塚(武彦)さんだとか、ドイツやってた天野(正治)さんとかですね。そのときに、一応、社会党のプランをペーパーにしたのかしてないのか分からないんですけど、木島喜兵衛さんが報告するんですね。そのたたき台、基を作ったのが海老原さんです。その海老原さんのたたき台は、多分、その後の教育改革第1次案に大体似てたかなと思うんです。探せばあるかもしれませんけどね。

 広田 はい。今、「国研」って言われましたけど、国立教育研究所ですか。

 嶺井 そうです。 

広田 社会党が計画して、国研と、それから、海老原先生、先生方と・・・。 

嶺井 「国際シンポジウムを開くので協力してくれ」って言って、多分、何人かに個別に依頼したのでしょう。 

広田 なるほど。社会党のほうでも、そういう教育のプランとかビジョンとかについて少しずつやってきてはいたっていうことですね。

 嶺井 ええ。

 広田 この時期は、社会党の中の「(日本における社会主義への)道」の廃棄があって、新しい路線の話がちょうど議論になってましたけど、そういう社会党の中での左右の立場の違いみたいなものは、議員さんの中で、教育を語るときにあったんですか。

 嶺井 この教育改革第一次案に関わったメンバーの中では、立場の違いはなかったような気がしますね。

 広田 当時、日教組のほうは、臨教審に対立するのか関わるのかみたいな、そんなものも含めて、まさに主流派の中の左右の激突があったわけですけど、議員の中にはあんまりなかったという。

 嶺井 あんまりなかったですね。このメンバーは、どちらかというと左派系ですので。 

広田 そうですか。

 嶺井 のちに久保さんなんかは大蔵大臣に。 

広田 大蔵大臣になりましたね。分かりました。じゃあ、次の項目に行きます。 

 


 社会党が行った地方議員を集めた集会について 


広田 社会党は、地方議員を集めて集会をやっていました。それに嶺井先生は3回ぐらい参加されたそうですけども。 

嶺井 はい。全国的な集会に3回ぐらい。 

広田 「教育と自治」という研究集会があって、教育についても議論していたということですかね。 嶺井 はい。

 広田 具体的にどういう主題が扱われて、地方議員の人たちはどんな感じだったのかという、そこら辺をちょっと教えてください。

 嶺井 ちっちゃな通信みたいなのを結構出してたんですよね。それが見つからなかったんです。大体は教育委員会制度の問題、それから、幼保一元化、それから、ちょうど参加問題がありましたので、学校運営への子どもの参加でありますとか、それから、ジェンダー問題ですかな。「男性議員にジェンダー意識がない」とか言って、女性議員が怒ってました。男女混合名簿の・・・、男が先で女は後だっていうのはおかしいんじゃないかというので、混合名簿に取り組もうと言ってるときに、男性議員が女性議員から批判をされていたというのがありました。

 広田 なるほど。教育委員会制度については何が焦点でしたか。

 嶺井 公選制ですね。

 広田 ああ、中野の公選制があってという、あの後ぐらいですかね。

 嶺井 そうですね。基本的に、先ほどの日本社会党「教育改革第1次案」改革案もそうですけど、もともと中央に教育委員会制度を作るっていう案があったんだから、われわれとしては、中央に教育委員会をつくって、地方の教育委員会は公選という、そういう原則論をやってました。

 広田 そうすると、学者は、「やれ、やれ」と言って、議員のほうは、「そんなのできない」みたいな、そういう構図ですか。 

嶺井 いや、中身に賛成はするんですけど、政治的力がないので。

 広田 多数派になれないとやれないわけですね。なるほどね。幼保一元化は1970年代ぐらいから進めるわけですよね。

 嶺井 そうですね。そういう検討・・・。

 広田 議論自体はね。

 嶺井 そうですね。だから、社会党のあれも、左派と右派というよりも自治労(全日本自治団体労働組合)と日教組の間の調整が大変だったようでした。

 広田 ほう。そこをもうちょっと教えてもらえますか。 

嶺井 幼保一元化も、幼稚園を主体にして保育園というのを考えるというかんがえかたがあります。でもそうじゃなくて保育所をベースにして、そこに教育的なものを入れていくというのもある。後者のようにすべきだというのが自治労型です。論点的にはそうだったんですけど、感情的には事務職員の組合加入をめぐって取り合いをやってましたので、そういうのが背景にあるので、両者の調整に気を使ったというのはありましたね。

 広田 ああ、なるほど。学校運営への子どもの参加っていうのは、確かに1980年代から90年代ぐらいにかけて、かなり議論がなされてましたね。

 嶺井 ええ。

 広田 でも、現実にどこまで進んでたのか、議論だけではなかったのかという気もするんですけど、どうですか。

 嶺井 実態はほとんど進まなかったですね。議論としてはヨーロッパの動向を紹介するのが基本でした。

 広田 そうですか。

 嶺井 もう一つ、さっきの地方議員を集めた集会ですけど、これをやっていましたね。「学校教育法上は、高校にも特殊学級を置けるようになってるのに全然ない。『できるだけ統合教育を』という発想からすれば、特殊学級をつくるのがいいかっていう基本的な問題はあるけれど、特殊学校に行かせるよりは、普通の高校の中で特殊学級をつくったほうがいいんじゃないか」っていうんで、「特殊学級を、法律にのっとって設置を進めようじゃないか」っていうのを、多分、木島さんが言い出して、これは国会で議論するところまで行ったかどうか分からないんですけど。

 広田 なるほど。

 嶺井 この論点は出てましたね。今、ちょうど出てきてますね。

 広田 インクルーシブ教育について言うと、1970年代ぐらいから嶺井先生たちのグループが言ってたようなものは、だんだんと実現してきてるみたいですね。 

嶺井正也の教育情報

日本やイタリア、国際機関の公教育政策に関するデータ、資料などを紹介する。インクルーシブ教育、公立学校選択制、OECDのPISA、教育インターナショナルなどがトピックになる

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