あの貝原益軒の意外な面

 本書をまだ読み終わてはいないが、これを読んでよかった。益軒にはよく知られたさまざまな著作があり、その中に、今どきの旅行ガイド的はものがあること、など興味深い指摘がある。またあの『女大学』を益軒が書いたというのは誤りであること、今でも読まれている『養生訓』は幼少期の益軒は身体が弱く病気がちであったからだという理由、などなども理解できた。

 益軒は公務が多かったが京都に24回(これ利用し、各地を回ってもいる)、江戸に12回、長崎に5回旅をした福岡藩内の領地も頻繁にまわっている。まさに、本書にあるように「諸国巡遊」している。代表的な紀行文に『西北紀行」が知られている。また京都案内書とういうべき『京城勝覧』もある。

 その中で39歳の時に結婚した当時17歳の初(後の東軒夫人)との生活について、本書は次のように紹介している。

 「益軒は一六六八(寛文八)年三十九歳で東軒夫人と結婚し、一七一三(正徳三)年八十四歳、東軒夫人に先立た荒れる(この時、夫人六十二歳)まで、ひたすら夫人に愛情を注いだ。多忙な生活にもかかわらず、夫人の郷里秋月の実家の江崎氏との交際を深め、夫人とともに二度にわたる京都旅行を楽しんでいる。二人はこのように親密で晩年まで幸福そのものの夫婦であったが、子供は生まれなかった。本来、強健ではない益軒は、東軒夫人の死によって心身疲労と寂しさとから健康を害し、翌年に妻を追うように死去した。」

 これを読み、「こんな益軒があの『女大学』を書くはずはない」と思った。しかし、『和俗童子訓』第五巻「女子を教える法」を再吟味する必要がありそうだ。

                                    <続く>

 

 



嶺井正也の教育情報

日本やイタリア、国際機関の公教育政策に関するデータ、資料などを紹介する。インクルーシブ教育、公立学校選択制、OECDのPISA、教育インターナショナルなどがトピックになる

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