「岡村達雄さんの研究・社会活動を振り返る」

 本稿は、2009年1月10日(土) 専修大学神田校舎1号館8A会議室で行われた「岡村達雄さんを偲ぶ会」の「 第一部 シンポジウム 岡村達雄さんの研究・社会活動を振り返る 」を起こしたものである。15年も前の記録であるので、ここに登場される方々に事前了解はしないままでの掲載になっていることを、お詫びしておきたい。

 残念ながら篠原睦治さんは2023年5月8日、鬼籍に入られている。

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嶺井正也 私は岡村さんの大学院時代の後輩に当たります。そういうことで「岡村さんを偲ぶ会」を呼びかけさせていただきました。第一部は、岡村さんの研究・社会活動を振り返ることをいたしますが、その進行役は、今回の発起人の一人であります筑波学院大学の宮寺晃夫さんにお願いしました。今日は、岡村さんのパートナーでいらっしゃる弥生さんが京都から駆けつけていただいています。なお、岡村さんのご遺影もお持ちいただきました。 

 宮寺晃夫(司会) それでは一部の始めに当たりまして一言呼びかけ人のほうからお話しをさせていただきたいと思います。偲ぶ会をしたいという最初のお話は嶺井さんのほうから私のほうにありまして、もうすでに関西のほうではこれと同じような試みをしているということでありましたので、岡村さんのもう一つの拠点であります関東地区でもぜひやりたいということで、こういう会を持つということで話を進めさせていただきました。 

 単に岡村さん個人の思い出を語り合うということだけでは物足りませんので、一部と二部に分けさせていただいて、一部のほうでは岡村さんの研究内容や社会的な活動内容についていわば客観的に眺めて、私たちの側から評価を出してみよう。それを通して岡村さんの遺志をこれから先私たちがどのように受け継いでいくかということを皆さんと一緒に考えていきたいと、そういう趣旨であります。 

 岡村さんの活動と言いましても多岐にわたっておりますので、それぞれの分野に分けて一番その分野について詳しい方に報告をいただき、そのあとでフロアの皆さんと一緒にさらに深めてまいりたいと、そういうふうに思います。 いちおう私のほうから今日報告者になっていただいた方のお名前だけ紹介させていただきます。江幡裕さん、篠原睦治さん、斎藤寛さん、北村小夜さん。ご当人のもう少し詳しい紹介に付きましてはのちほど自己紹介をしていただくことにいたします。では私のすぐ隣におります江幡さん、お願いいたします。 

 

「著書をたどりながら岡村氏を偲ぶ」

 江幡 裕 レジュメを用意いたしましたので、そのレジュメに沿いながら、果たして20分で終わるかどうか不安を抱きながらお話をしてみたいと思います。私と岡村さんとのつながりを整理してみますと、同じ大学院の中で同じ時期にキャンパス生活を過ごしたということが一つあります。それから、私が教育制度の講座であり、岡村さんが教育行政学の講座であるという違いはあるのですけれども、これは似通った隣同士の研究分野ということもあって、ほぼ同じようなことについてその大学院の中で勉強していたということ、この二つのところでの関わりがございまして、それゆえに私が今日スピーチ役をいただいたのではないかと思います。

  大学院時代を思い返してということで、大雑把に年表風に整理してみたのでが、私と岡村さんとの大学院時代の交わりには、三つの世界があるのではないかと思います。一つは大学院のクラスの中で、研究室の中で、教室の中でという交わり。それからもう一つはこの当時、教育大学は筑波移転を巡りましていろいろな問題が噴出し非常に困難な時期であったわけですけれども、その筑波移転ということを巡っての交わりということが二つ目にあると思います。それからもう一つはほかの人たちには分からない、私と岡村さんだけの世界、インフォーマルというか密やかなというか。それは映画であったり、新宿のちょっといかがわしい飲み屋さんであったり、あるときは井の頭公園の真ん中のベンチの上であったり、というふうなことの中での交わりです。お手元にお配りした年表風なものもそれなりに一段・二段・三段というふうに整理してみたしたが、今日はその一段目を中心にして、二段目を背景に置きながら、お話を進めていきたいと思います。 私は1965年に大学院に入りました。そして一年遅れでで岡村さんが66年に大学院へ入ってこられた。私は71年に大学院を修了し、そのまま同じ教育大学の助手に就任しました。そして2年後1973年の3月に岡村さんは大学院を終わられ、4月に長崎大学へ赴任された。私も同じ73年のちょっと月はずれるのですけれども、7月に教育大学の助手を終えて香川大学へ赴任した。このようなことで、私たちの大学院生活がほぼ重なっているといます。

  彼とは教育行政・制度という近接の分野で一緒に勉強してきたということではあるわけですけれども、本日のスピーチにおいて、この研究領域における彼の実績・業績・残された課題といったものを評価したりとか、総括したりとか、整理したりとかを進めるだけの準備はまだございません。彼が亡くなったというお話を聞いて、ともかく家の中のあちこちに置いてあった彼の本を書棚の一か所にまとめておこうということで、私の書庫の一部分に、岡村文庫的なものをまとめるというところまではできているのですけれども、それ以後彼の著書をもう一回読み直して、そして今申し上げたようなことをしてみようというような気持ちになれないという状況にあります。むしろ二人の大学院時代を思い出しながら、思い返しながら、しかしそれは個人的な思い出、思い直しがたくさんあるわけですけれども、本日の私のお話は、出席された皆さんと共有できそうなそういう事柄について、何とかこのくらいまでなら整理してお話できるかなと思う内容について、レジュメの形で準備をしてまいりました。 レジュメの2ページ目のところに「岡村氏の著書をたどりながら」という見出しを付けて5冊ほどの彼の著書を紹介し、それぞれの本を私が読んだときの印象・感動・感じを思い出しながら整理してみました。

  まず、最初の『教育労働論-公教育の構造と官僚制』(明治図書 1976)。これは岡村氏にとっては最初の単著になるものです。そしてこれは「教育労働論」についての先達であり重鎮であった芝田進午氏に対するかなり挑戦的な根源的な批判を展開しているものでありました。そして教育学の世界では、教育活動とか教育実践とかいろいろな言葉が使われるわけですけれども、そういった教師が行なう教育活動・教育実践といったようなものを社会科学的な視点からとらえようとするとき、それは優れて教育労働という形で取り上げる・対象化する・分析するということが不可欠の課題であるということを宣言している本だと読み取りました。そしてこの本は76年ですから、さきほどの年表ですと私も岡村さんもそれぞれの大学で教員生活を始めていた時期なわけですけれども、この本を読んだ当初、私はあの芝田さんにかみついて大丈夫かよというような不安を感じながら、読み始めたことを今でも鮮明に覚えております。読み続ける中で、院生時代とはまた違う彼の決断、あるいは自己表明といったものを感じました。それまで院生時代に使っていた言葉を今思い返してみると、まさに本質・原理を求めて進むということは説得や連帯を求めていくということだけれども、しかしその過程において孤立することがあっても歩みをやめないというような、そういう決意表明。しかも大学教員としての生活をスタートさせるその時期に、この本の中で宣言しているのではないかというとらえ方をその当時いたしました。

  それから二番目の伊藤和衛編著の『教育行政過程論』(第一法規 1976)。これは筑波移転の問題にそれなりの決着が付けられて、いよいよ教育大学が終わりになるというその時期に教育大学の教育学科の教員たちが企画して『教育学研究全集』(第一法規、全14巻)を編集・発行したわけですけれども、そのうちの第5巻において岡村さんは「教育行政計画論―現代教育計画の批判的考察」というテーマで論文を書いています。ここでもその教育行政あるいは教育制度の研究といったものにおける、最も中心的な眼目となるものを提起していたように思います。これは、そういった教育行政・制度といったものが常に国家内存在として編成され運営されているのだということ。しかも全体社会の多様な関係構造の変容とかその社会が直面している課題とかというものに促されて編成され運用されているのだということを真っ正面にまず据えなければならない。そしてそれら現行の行政あるいは制度が必然的に抱え込んでしまっているはずの矛盾といったものを本質のレベルにおいて批判し、その批判を展開していかなければならないということを展開した、と読み取りました。70年代の前半からこの時期にかけて、教育行政や制度の研究の領域では「教育計画論」ということが持てはやされておりました。あるいはシステム論であるとかあるいは未来予測に基づいた計画・立案であるとかというようなことが強調されておりました。そういった当時の学会の動向に対する彼なりの宣言であったと思います。

  このようなことは院生時代にいろいろな場で、喫茶店の中であったり、座り込みの場の中であったり、あるいは新宿の裏のほうの隠微さの漂うスナックであったりというふうなところで散々、「分かんねえな。分かんねえな」という言葉を挟み込みながら、多くの院生仲間と車座になって、あるいは岡村氏と向かい合ってという形で議論を続けてきたことでありました。そういう意味では、この76年の論文を読んだときには、新米の大学教員としてどうやっていくかという「近い未来」への意欲や不安と、心の赴くままに身を置いていた「近い過去」の緊張や高揚とのズレを静かにしかし深刻に感じたというふうなこともありました。

  それから三つ目の『現代公教育論―再編と変革への視座』(社会評論社 1982)。これは増補・改訂されて86年に出されました。この本の中で非常に印象深く読み取った内容は、現在われわれの目の前に展開している編成され運用されている公教育というものは、歴史的な規定として考えれば、近代公教育という歴史特性を持っているものであるということ。そしてまた戦後の憲法・教育基本法体制と言われるもの、それもそういった近代公教育体制という基本的な歴史的な社会的な政治的な制約性を持っているのだということ。したがって公教育にかかわる社会科学的な研究を進めていこうとするときの基本的な課題、それは近代における教育、教育における近代といったものが何なのかということ。どういう矛盾を持っているのかということ。どういうふうに克服されなければならないのかということ。そういうことを追求していくことが公教育研究としての教育制度・教育行政の研究の基本的な課題なのだということが、この本の中で繰り返し強調されていました。

  60年代の熱気が終わって70年代の後半から80年代にかけて、教育学研究の世界の中で「批判だけでは駄目だ。それに代わるべき対案の提示ができないような研究は本当の研究ではない」というふうなことが言われるようになっておりました。そういうことに対す岡村氏の対抗的な研究姿勢の表明だったと思います。この本を読んだときにもまた院生時代に散々語り合った言葉を思い出したわけですけれども、それはこれまでの国民教育論とか国民の教育論とか教育権論とかといったものを絶対に乗り越えなきゃならないのだよ、それが持っているイデオロギー性といったものだけで批判したのでは駄目だし、結局その乗り越えるところのポイントは近代公教育批判なのだよ、というふうなことを言葉を変え場面を変えながら、彼が院生時代に私たちと語り合っていたことを思い返しました。

  四番目、『教育運動の思想と課題』(社会評論社 1989)。これについてはその本を読んでの印象ということではなく、彼がその本を私に送ってくれたときにその本の中に包み込まれ同封されていた彼の手紙を読んだとき、89年の12月8日付けの手紙を数日後に受け取って読んだときの印象が今となってとても深く私にはよみがえってきます。内容的には差し支えないであろうと思いますので、私信ではありますがちょっと一部を紹介してみたいと思います。「拝啓 12月になりました。その後、ごぶさたしております。お元気のことと思います。8月初めから10月中旬にかけて、トルコ・ロンドン・ソビエトを回って帰国しました。その後、疲れもあったのでしょうか。毎日点滴で養生しています。それでもようやく復調しそうなので自分では休心しています。一人旅の不摂生で体を痛めさせたのだと思います」という一節が、この手紙の中に書かれておりました。彼は院生時代から身体強健というほうではなくて、むしろあるひ弱さみたいなものを身体的健康的には漂わせるところがあって、学生時代もひそかに案じていたというふうな時期もあったわけですけれども、89年の12月にこの手紙を頂いて非常に不安を感じ・心配し、そしておそらくその直後に大丈夫かというような手紙を出したのだろうと思います。それ以前から学会で年1回2回出会えるのを楽しみにしていたわけですけれども、この手紙以降は今年の学会も来ているのだろうなと心待ちに出かけていくけれども、「あれ、いない。会場探してもいないぞ」とか、懇親会の会場には「あれ、今年は出て来ていないんだな」とかという、そういう「会えない場面」みたいなものが非常に気になって過ごすようになりました。そのきっかけがこの89年にいただいた彼からのその同封の手紙であったと思います。

  五番目、『教育基本法「改正」とは何か―自由と国家をめぐって』(インパクト出版会 2004)は彼の著書との最後の出会いになってしまいました。この本を読んだときに非常に印象深く、そしてまた彼の院生時代からの問題・関心といったものをしつこく頑強に持ち続けているということを改めて感じ取り、そして感心したという記憶があります。それはわれわれが公教育現実の中で作り出すべき対抗的な試み、あるいは運動、あるいは理論、さきほどからの近代公教育を批判しようとするときの対抗的な試み、それについて彼は二つの点を強調していたと思います。一つはそのままの言葉で引用しますと「寛容さを備えた価値多元的で共同的な関係性の場へ」試みを進めていかなければならない。共同的な関係性のあり方、それからもう一つは「国家と社会のあらゆる次元で越境できる・越境する自由の教育の創造へ」ということ。院生時代にも彼とも付き合いの中で、議論の中で、まだ彼がゼミや何かで書いたいろいろな文章の中で、決してこういう言葉ではなかったけれども、やはりこういうことを言っていた。「両立できないのではないの。その二つの方向というのは股裂きになっちゃうのではないの」というような印象を持ちながら彼と議論をしていたというふうなことが思い出されます。

 そのことを2004年の本でもまた繰り返して、これこそがわが進む道といったものとして展開してくれているということを読み取って非常に感動しました。そしてこれこそ、われわれの教育学研究、教育制度であったり、教育行政であったりという研究がぶち当たっているものすごく大きな・ものすごく高い・ものすごく厚い壁なのだというふうなこと。この壁をどうしたら前へ進めること・乗り越えることができるかということをこそ、これから彼と語り合っていきたい。この本が最後の出会い、最後の著書になってしまったことを思い知るにつけて、そのことを今までにもっともっと語り合えていたはずだったのに、そのことがとても残念に思われます。


  宮寺 江幡さん、どうもありがとうございました。ただ今の話の中で岡村さんが教育学者としてどういうような研 究をされてきたのかという話、お分かりいただけければと思います。私も同じ教育学をやっている人間ですが、やはり岡村さんの教育学はきわめて独自なものです。正統派とはとても言えないわけであります。教育自体もよきもの・守るべきものというふうに最初から決めてかかるような、そういうスタンスではなくて、岡村さんは常に教育の場とは国家の中に組み込まれていくものであるのだから、国家権力との対決というそういう姿勢を取り続けないと、せっかくやっていることも国家によって絡め取られてしまう。そういうことを常に私たちに自覚させてくれるような、そういう研究を出し続けてくれたように思います。それでは次に参りまして、今度、篠原さんお願いします。


「畏友岡村さんが問いかけてくれたもの」 

篠原睦治 今日「追悼・岡村達雄さん、今は亡き畏友、岡村達雄さんの問いかけを振り返る」(社会臨床雑誌16巻2号 2009年2月)という文章をお配りしてありますので、そこに目を落としていただきながら聞いていただければと思います。それで限られた時間でこれを読もうかなと思ったり、それからこの中からいくつかのことをしゃべろうかなというふうに迷っておりましたけれども、後者で行くことに致します。ということで全部触れるわけにもいきませんし、時間が来たらパタリとやめるというスタイルで話をさせていただくということに致します。お許し下さい。

  70年前後、岡村さんは大学院生で、ぼくは特殊教育学科で助手をすでにやっていたのですが、そんな関係で、ある時期、教育大学のキャンパスで、ある時間・空間を共有したことになるのですが、実はここでは、彼は筑波移転反対運動の院生・学部生の理論的なリーダーとしてすでに活動されていて、ぼくも、一応、この問題に緊張的にかかわってきたのですが、振り返ってみると相当いいかげんなスタンスで動いていたなと思っておりまして、そんな意味で同じキャンパスの中で共に学んだとか共に闘ったというそういう関係ではないのですが、少なくとも私は岡村さんの活動を気にし続けておりました。

  ただ本格的に岡村さんと付き合い出したのは、実は1979年は養護学校義務化が成立してしまう年でありますけれども、その前後からであります。その頃、私たちの臨床心理学会は学会改革運動の中にありましたが、当然、そんな学会らしく、発達や教育の問題を考えたり、そこの文脈の中で養護学校義務化の問題を考えたりしていました。その頃、持田栄一先生も、「義務化」批判の発言をされ出していた頃でありましたが、臨心総会シンポ「養護学校義務化とは何か―歴史と現実から学ぶ」(会場 東大)を開きたいということで、北村さんに声をかけたり、それから持田栄一さんにも来てほしいというふうに思って、私は先生に頼みに行きました。先生は快諾されたのですが、総会のときを待たずに、数か月のうちに亡くなってしまいました。お葬儀に私も参列させていただきましたが、そのとき、確か彼とあらかじめアポイントを取っていたと思いますけれども、持田先生の葬儀の行われた池上の本門寺で彼と再会をするというか、本格的な付き合いが始まることになります。持田先生に代わってシンポジストになってほしいということが、彼と本格的に一緒に考え出す出発点でした。当然岡村さんは、「先生の思いを継いで弔い合戦をする」ということで、一緒にこの「義務化」問題を考えだしたということがありました。

 これが78年の夏でしたが、終わりましたあとに、今日も来ているのですけれども山下恒男さんら、3、4人で飯を食ったのですね。そこで、この日の総会の過程を振り返りながら、急いで一冊にまとめようということになりまして、それができ上がったのが『戦後特殊教育・その構造と論理の批判―共生・共育の原理を求めて』(社会評論社 1980)ということです。このとき、彼は私にとってはでっかいいくつかの問題を提起してくれたと思っております。一つは、近代公教育における近代的な平等論批判でありました。それからもう一つ、私たちは当時、「どの子も地域の学校へ」「分けるな」ということで、「地域の校区の学校に行こう」というふうに呼びかけ合っていたわけですけれども、「校区の学校」を両義的に考えるという問題提起をされました。つまり、「障害」児が校区の学校から排除されているということそれ自体で、そこは、もうすでに能力主義的な選別性を持っていると指摘しています。したがってその分だけ、排除された側は一緒に学ぶということを求めて、「地域の学校へ」なのだと、「校区の両義性」ということを強調されました。

 そんなことを巡って、以後岡村さんとは議論を進めていくわけですけれども、実は私は81年に、一年間チャンスがありまして、アメリカへ取材旅行に出かけます。その頃、アメリカでは、二つの流れがクロスしていました。一つは人種統合教育ですね。黒人と白人の共学というふうな流れ、これは公民権運動の流れの中で70年代から80年代にかけて展開をするわけです。それからもう一つ、「障害」者・「障害」児と言われる人たちがコミュニティーに戻ってくる。これを「メインストリーミング」というふうに言いますけれども、したがってコミュニティーの学校には黒人と白人とが共学するという流れと、「健常」児と「障害」児が共学をするという流れがクロスしているはずであるというのが、私たちが日本でマスコミ報道等で聞いてきた話でありました。私はこんな美しい話はあり得ないと疑っていたのですが、でも一回は現地に見に行こうということで、一年間相当向きになって取材活動をしました。

  東京に戻って、一冊の本『障害児教育と人種問題』(現代書館 1982)をまとめるのですが、岡村さんは、この本を高く評価してくれました。このなかで、ぼくは、アメリカのメインストリーミングの流れは一緒にしといてまた分けるのだと、「統合化の新たな分離」という言い方をいたしましたけれども、それは「どの子も地域の学校へ」といった思いとはまた違うものであるというふうな発言をしました。私は、そこで、日本での「どの子も地域の学校へ」の思いと模索には、「日本的な共生論」があるのではないかと発言します。つまり、村落共同体における相互扶助性と異端排除性あるいは村八分性という両義性に着目して、村の中で暮らし合ってきた関係が持っている、包摂と排除といったせめぎあい、という文脈の中で「共生」というのを考えたわけです。これは斎藤寛さんが言いだした言葉でありますけれども、「せめぎ合う共生」ということですが、岡村さんは、このとらえ方に対しては批判しました。つまり「日本的」と括ることについての批判です。つまり国という概念を使って人間社会を描くことへの警戒的・禁欲的な姿勢です。これはまさに国家というものを意識し、対峙し続けてきた彼のこだわり方でありました。以後、私は「日本的」ということに対して緊張感を持って使い続けてきました。 

 ちょっと余談めいた話になりますが、私は80年代当初に北村小夜さんたちに口説かれてというか招かれてというか、全国教研などの共同研究者になっていくのですが、当時養護学校の義務化徹底の流れとそれを批判する私たちの流れの渦の中で、私も、針のむしろに座る思いで、でも向きになって論争しあった体験がございます。ところが80年代の後半になってくると日教組が分裂をするわけです。そういう流れの中で私自身も潮時だなというふうに思ったのですね。日教組が一方的に共同研究者の仕分けを始めました。私は「反日共・社会党系研究者」というふうなカテゴリーになったようでして、そんな扱われ方に対して反発して辞めることにしました。結果的には、再び北村さんたちに口説かれて、またしばらく続けることになりましたが、私は確かに党派性とかということについて非常に毛嫌いしているところあるのですが、もう一方で人脈に弱いという反省もありました。でもそういうところで、つながりを広げられてきたという意味で人脈主義のほうを取って来ました。これは対立的な概念なのかどうかは知りませんが、確か、京都辺りで全国教研があったときと思いますが、ぼくは、京都の岡村さんのご自宅にお邪魔して、ご夫妻のもてなしを受けながら、このことを話したとき、岡村さんから、厳しくというか静かに、人脈主義もまた政治主義・党派主義を補完すると指摘され、そのことの自覚を促されたことがありました。

  次に申し上げることは結構でっかい話かなと思いますが、時間の関係でここだけにさせていただきますけれども、岡村さんは「共生論」・「共生・共育論」という言葉を、ぼくたちと一緒に使ってきたわけでありますけれども、私がある時期に、同じ教科書、テキストを使って、勉強のできる者もできない者も同じ時間・空間を徹底して共有するという、そういう問題提起をして、それなりに物議を醸したことがあります。それは、そこを通して人々が、子どもたちが、いろいろなふうにいろいろなことを体験していく、発見をしていく。つまり同じ時間・空間、同じテーマ・教材がただちに同一のいわば結果を期待するということではなくて、そうすることによって逆にお互いの関係が多様かつ力動的に生まれていくという、そういうこだわり方をしてきた経過がありました。

  ところが岡村さんは、このことに対して一貫して批判的というか、疑問を投げ続けことがありました(岡村・山下・篠原「〈鼎談〉「共生」論を検証する(上・下)」臨床心理学研究27巻3号、28巻1号、1990)。これはさっき江幡さんが出されていた、その「寛容さを備えた価値多元的で共同的な関係性の場」の創造という文脈とつながる彼のこだわり方との関係で言っていたわけですね。私は、例えば「学校選択権」は基本的には駄目だ、つまり皆で無理してでも地域の学校に行こう、そういうことを言っていたのですが、彼は、この鼎談で、それについての違和感・異質感・異議というものを一貫して述べました。私はオタオタしながら対応したという経過がありますけれども、岡村さんは、多様性を認めるということと関係性を尊重することは、ときに矛盾し、非常に緊張的なテーマであるけれども、でも多様性も捨てるわけにはいかないだろうというこだわり方をされていたと思います。具体的に言えば、岡村さんは、学校教育の場を、障害を持った者と持たない者との関係のことだけではなく、日本人と外国人との関係問題、それから当時、彼は部落解放運動、だから解放教育の問題や文脈でも考えておりまして、母語と日本語の問題、学力保障の問題などを自他に問いかけていました。私などはむしろ「学力保障論」が入ってくることで、むしろ特殊教育つまり分離を認めてしまうことに警戒をしてきたという経過があって、なんとなく食わず嫌いなところがありましたけれども、やはり、このようなテーマを批判するにしてもしっかり抱え込みながら「地域の学校」を考えなくてはならないと気づかされてきました。 私は、「同一性」という言葉で必ずしも言ったつもりはありませんでしたけれども、結果的にはそういうふうに読めるような発言をしておりましたし、いまでも、そのことにこだわっていますが、岡村さんは、むしろ多元性とか、生き方とか価値観の多様性ということに対して、やはりここはきちんと見つめながら、なお、ここで「共存」という関係的なテーマを同時に追求するという、そういう運動的、思想的そして生き方のテーマとして、私に迫り続けていました。時間のことがありますので、ここで区切らせていただきます。 

宮寺 お話を伺いながら岡村さんと同じ時代に院生時代を過ごして、そのときぼくの大学でもその当時助手の方が大変元気で、われわれ院生に対して発破をかけるというとおかしいのだけれども、「お前たち、何をしているのだ」というような、助手の方がむしろ私たちのほうに問いかけてくれるような、そういう環境がありました。幸いなことに私たちの場合ですと、篠原さんや、それからこの会場にも来られていますけれども、山下恒男さんという先輩の方が、もうすでにかなりラジカルな観点から研究者の在り方について常に問いかけてくれていました。それに後輩である私たちが応えざるを得ないという、そういう状況に置かれたことも思い出します。

  それから中身にかかわって言いますと、篠原さんがそれからまた岡村さんが「共生・共学」ということを真っ先に使った研究者ではないかと思います。今日「共生」という言葉が広く使われ過ぎてしまって切れ味が鈍ってしまっているわけなのですが、この言葉が最初に出てきた当時のことは鮮明におぼえております。また、それは、「発達保障論」ということでも駄目で、また「権利としての教育」ということでも駄目で、そうではなくて、まずいろいろな人たちがいるということの空間の統一性・同一性というところから始めようと、そういう鋭い問題提起でした。これはこれから先、私たちが引き継いでいかなきゃいけない点だなと思います。それから後ほどお話を伺えるかと思いますが、山下さんは、「発達」という概念そのものに対して根本的な疑問を持たされた。これも大変衝撃的な出来事でありました。そういう今日からたどってみましても、近代・現代の中でずっと私たちが守ってこようとした教育の固有価値みたいなのに対する根源的な懐疑がその時代から始まった。また岡村さんがそれを率先して、そういう問題を提起してくれたということを忘れてはならないと思います。それでは次に今度斎藤さんにお願いしたいと思います。 


「『平等』と『共生』をめぐって」

斎藤 寛 私は今のお二方よりもう少しあとになってから岡村さんに初めて出会っていまして、そういうことでは岡村さんはもうちょっと上の先輩に当たる世代の方です。私は、今、篠原さんのお話にもちょっとお名前が出ましたけれども、持田栄一さんに若いころ大変ひかれまして、「民主・国民教育論批判」ということを教育学の学問の世界で言っている方ってあの人だけだというような状況だったのですね。学問以外のところで言うと教育労働運動の左派の人たちは随分そういう理論活動を当時やっていました。60年代後半から70年代前半くらいの時期、教育について何か勉強するのなら持田さんだろうと思ったのです。ですから「教育行政学」に関心があって持田ゼミに行ったというよりは持田栄一という人に何かちょっと習ってみたいという、「習ってみたい」というのもちょっと語弊がありますが、そういう感じで持田ゼミのゼミ生になって、その延長上でのご縁で、岡村さんと、確か「教育計画会議」と当時言っていましたけれども、そのサークルの合宿か何かで初めてお会いしました。 

 お手元にある「岡村さんの平等批判を再読する」(社会臨床雑誌16巻2号 2009)というものが私の資料の代わりです。これをそのまま読み上げてもつまらないので、概略については述べますけれども、文章の方はあとでお読み下さい。

  最初に岡村さんにお目にかかったのは、30年以上前だと思いますが、確か八王子にある大学セミナーハウスで、私は当時、『講座マルクス主義(6)教育』、それから『教育変革への視座―国民教育論批判』など、持田栄一編という形でいくつか本が出ていた中に岡村さんが書かれていた論文を読んでいて、そのイメージで言うと、岡村達雄という人は何かいかにも新左翼の闘士みたいな人なのだろうとばかり思っていましたが、お目にかかってみると「えっ? この方が岡村さんなんですか?」という感じで、大変物静かな文学青年風の方というか、ちょっと研究会の本題が一段落しますと、映画を語り詩を語りみたいな、そういうお方だったので、大変書かれたものとイメージが違うという、それが第一印象でした。どうもそれは私だけではなくて同じような経験をされている方が多いみたいです。ただ岡村さんがいったん論文を書くとか、こういうシンポジウムのような場で何かを語り出すとかいうことになりますと、「ああ、いかにも左翼の人だ」というような感じの方でありまして、私が印象深く覚えているのは、これは80年代の臨教審のころだったと思いますけれども、東大で自主講座「大学論」っていうシリーズがあって、そのときに確か岡村さんが臨教審批判の話をされたんですね。それが終ったときに、その講座の主催の人たちが岡村さんのことを「ああいう人が左翼っていうんだよねえ」と言っていたのをいまだによく覚えているのですが、そういう面もありました。けれども、私はどちらかというと物静かに深くものを考える方であった岡村さんという面に一番親しみを感じていたという、そんな印象があります。

 岡村さんがいろいろ書かれたことというのは多岐にわたっていて、ワンポイントくらいしかここでは言えないなと思いまして、お手元の資料のエッセーに書きました中で、篠原さんの今の話と重なるのですけれども、『戦後特殊教育・その構造と論理の批判』という本にふれました。この本は篠原さんとそれから山下さんと嶺井さんも書かれていまして、ここで改めて振り返ってご紹介するのに大変ふさわしい本かなという気もいたします。そこで岡村さんが書いていることの中で、「校区論」ということを言われたりいろいろなことを言われていて、大変今読み返しても新鮮で面白い論文なのですけれども、ずっと私が気になっていたのが、「平等」とは何かをもう一度吟味するというくだりがあるのですね。「平等」という概念と「共生」というのは近いのか、違うのかというあたりを岡村さんが考えているくだりがありまして、今回追悼と言っても通り一遍の追悼では岡村さんは喜ばないだろうなと思って、もう一度岡村さんが書いたものを読み返して考えてみようという趣旨で書いたのがこのエッセーのメーンの部分だったつもりです。

  さっきちょっと言いました「民主国民教育論批判」についてですが、当時の法解釈論と教育学が結びついて、ある種の近代主義的な学問の地平が作られていました。教育学のいわば進歩的な方面の方々のメーンというのはそういう世界にいたのですけれども、どうもそういう世界で和んでしまうのは社会科学からすればぬるいのではないかということを、「民主国民教育論批判」というかたちでずっと持田さんは言われ続けていました。当然岡村さんも「民主国民教育論批判」は議論の前提なのですが、私の記憶で言うと、持田栄一さんという方はその「民主国民教育論批判」ということを繰り返しあちこちで書かれた方なのですが、岡村さんは同じことをあちこちで繰り返し言うことに意味があるというふうには考えなかったんだな、というふうに今振り返って思うところがあります。岡村さんはいつも必ず自分なりのテーマを立てて、「平等」とか「校区」とかそれから「処分-裁判」とか、「三権分立としての国家を改めて考える」とか、そういうふうに彼なりにずっとテーマを立て続けて行ったところがあって、その中で折りに触れて「民主国民教育論者はこう言っているけれども、それじゃ駄目でしょ」という言い方をしたり、たぶん「処分-裁判」論あたりからは、「大体こういうテーマの立て方自体、民主国民教育論者は逆立ちしても立てられないだろう。どうだ!」みたいな感じで言われていたのではないかなという気がします。岡村さんは、同じことを繰り返し言うことにも政治的な意味はあるだろう、というふうにはふるまわなかった。それは大変にリスペクトに値することなのではないか、と今振り返って思ったりしています。

  話は戻りますけれども、『戦後特殊教育・その構造と論理の批判』の論稿で「平等」について岡村さんが考えているくだりがあります。できましたらば、この本をあとでどこかで、今もう絶版でしょうか、図書館などにあれば見ていただきたい本なのですけれども、「平等」についていろいろな種別分けを岡村さんはそこでされているのですね。それでちょっと詳しいことはここで口頭では伝えにくいのですが、エッセーにもちょっと書きましたけれども、「絶対的平等」と言われるケース、つまり同じ法的処遇が実質的平等を保障するようなケースに特に岡村さんは注目していて、例えばどういうものかというと、男女共学などが例示されているのですけれども、同じ法的処遇をすることが実質的な平等を保障する「絶対的平等」というのが、様々な「平等」があり得る中で一番大事だというか、われわれに近しいというか、何かそういう書き方をされていました。 で、一方で「平等」とは一線を画して「共生」原理ということを岡村さんはここで言われていて、この文章のそもそもの書き起こしというのは、障害者差別の問題というのは「平等」とか「権利」とか、そういう法的なものの考え方の枠組みに切り縮めてしまってはいけないのだということから始まっている文章なのですね。だけれどもやはり「平等」概念は大事だからということで、その「絶対的平等」なるものを引き出して来て、これが「共生」原理と近いというようなことをほのめかされておられるのですが、この文章はそこで終わっています。その「絶対的平等」と「共生」原理はかなり重なるところもあるのか。近いけれども、やはり違うのか。「共生」原理というのはやはり「平等」というようなことを考える思考様式とは違うところにあるのだよ、と言いたいのか。そこは何かよく分からないまま終わっている文章だという印象が私はありました。で、これはずっと何か自分なりに気になっていて、これが気になり始めてから何回か岡村さんにお会いしているはずですから、何か直接伺ったこともあるはずなのですけれども、あまり記憶に残るようなお答えをいただいていないのは私の記憶力がいけないのか、疑問のまま残っていたのでした。

  今回読み返してみて、私の考えでは、何か「絶対的平等」の地続きの延長上に「共生原理」があるというのは違うのではないか。その場合の「平等」というのは、そのエッセーにちょっと書きましたけれども、ある種の例えで言うと、静止画像みたいに時間の流れをいったん止めて、何かそこにいろいろな個人がいて、「国家権力」があって、「国家」が様々な「処遇」をしていると。その個人の間にどういう「差異」があって、それに対してどういう「処遇」がふさわしいかということを静止画像で考えるような、例えて言えば、そういう考え方なのだろうと思うのですけれども、「共生」「共に生きる」というのは、かかわり合って生きているわけですから、時間が流れていないと「共生」にはならないだろうと。そこのところがどうも基本的に違うのかなと思いました。

  そうすると静止画像の方がものごとは論じやすいわけで、「共生」というのは大体論じるようなものとはちょっと違うのかな、とも思います。むしろ「共生」を表現するとすればエッセーだったりルポだったり、ひょっとして小説だったり、そんなふうになるのがふさわしいものかな、などと思ったりしています。 それで、学問ということで言えば、「静学」と「動学」、「静か」と「動く」というふうなことを古来言うようですけれども、「共生」はあえて言えば「動学」の話で、それに対して法的思考というのはどうしても「静学」の話で、そこはちょっと元々何か構えが違うようなことがあるのかなと思ったりしました。昔の話になりますが、私たちが若いころによく読んだ本で真木悠介さんの『人間解放の理論のために』というのがあります。彼はそこで人と人とのかかわりが相乗性になる場合と相克性になる場合とがある、人間が複数・多数いたときにそれがプラスになる場合、マイナスになる場合がある、みたいな立て方をしていました。これは時間が流れていないとそういうことは言えないので、真木さんの思考様式は静止画像ではないのですよね。どっちかと言うと「共生原理」というのは、静止画像ではなくて、時間が流れている中で何かいろいろなことを少しずつ少しずつ感じていくようなもの、それを仮りに「共生」と言うとするならばそう言うのかな、と改めて思ったりしています。 ただ、さきほどお話がありましたけれども、「共生」という言葉はやたらはやってしまって何だかよく分からない言葉になっていますので、もうちょっと何か別の言い方というか、あるいは何らかの別の表現方法のようなことを少しいろいろ積み重ねていって、こういうことがあのころ言っていた「共生」だよねというような、そういう言い方をもう少し考えないといけないのかな、と思ったりもしています。

  お手元の資料の最後の部分に書きましたように、私は、人間死んだら無に帰するに決まっていると断定するようなタダモノ論者ではありませんので、こうした空間にも死者と生者は一緒にいるような感じがします。それで、岡村さんはたぶんここで聞いておられるような気がしますので、ちょっと岡村さんに確かめてみたかったり、また、お手元の資料のエッセーのなかで、岡村さんの「平等」批判の議論はここで取り上げた時期以降あまり深化されなかったというふうに書いてある点については、岡村さんに謝りつつ訂正・補足しなければならないと思っていたりします。

  話を戻しますが、この「平等」論の後になると、岡村さんは、君が代訴訟、あるいは教員処分に対する裁判闘争にかかわる理論武装など、そういう面で運動とかかわって行くということが大変多くなったと思います。このへんからあとの岡村さんの活動には私は断片的にしか接していないので、ちょっと詳しいことはここでよく申し上げられないのですけれども、断片的な印象で言うと、例えば裁判闘争の中で意見書を書くとか、証人として陳述をするとかいうことになれば、これはどうしてもそれこそ法的思考の中で裁判官に通じるような、ものすごく制約コードがかかった次元での発言になるのですよね。ともかくも法解釈論のレベルでちゃんと通じるような議論をしなければならないわけですから。そういう議論を岡村さんは随分いろいろ引き受けて意見書を書いたりされていましたから、そちらの方にやはりどうしても彼の時間や関心やエネルギーが向かって行ったのではないかと思います。 岡村さんが『戦後特殊教育・その構造と論理の批判』の論稿、それから一つ言い忘れましたけれども、「教育―転生への視座」というタイトルの、近代理性批判という大変に重要にして面白いテーマを掲げたエッセーがあるのですけれども、これもさきほどご紹介がありました『現代公教育論』という本の中に、タイトルは変わっちゃっていますけれども入っています。それでそういうものを書かれた時の岡村さんは自由に深くものを考える方だったのですが、法解釈という局面でものを考えたり発言するというところに少し入って行かれたときに、やはりそれは岡村さんにとっては何か不自由なことだったのではないかというふうに思います。このへんからは推測の話なのですけれども、「俺はこんなに不自由だ」と彼から聞いたわけではないのですが、何かそういう不自由さの中で、ミイラ取りがミイラにはならなかっただろうけれども、自由な思考の振り幅が何ほどか切り縮められたように思われ、ある意味ではそれは残念なことだった、というようにお手元のエッセーでは書きました。 

 実は、その際にちょっと私が見落としていた大事なことがあって、その一方で岡村さんはこの時期に教員処分ということをテーマにして『処分論―「日の丸」「君が代」と公教育』という本を出されて、それから今ここにある分厚い本なんですが、『日本近代公教育の支配装置』、サブタイトルは「教員処分体制の形成と展開をめぐって」という、これは岡村達雄編の共著の本ですけれども、この分厚い本の最初のところを岡村さんが書かれています。 

 今の話の続きで言うと、例えば何らかの裁判闘争にかかわって意見書を書くとか証言をするとかという時に、証言者が「私は憲法・教育基本法なんか信じちゃいません」とか言うとそれはまずいですから、裁判官に通じるようにやはりものを言わないといけない。もう、裁判の勝ち負けはどうでもいいから、法廷を言いたいことを言う場にするのだというのだったら別ですけれども、そうではなかったのだろうと思うのですね、岡村さんのかかわり方というのは。そうすると、何かこういうことをやっている自分って一体何なのだろう? ということをきっとまた彼は考えたと思うので、それがこの本の中の言い方で言うと、その裁判、司法権というものも「国家」の、「国家権力」の支配装置である。だからその中で何をやってもむなしいかと言うとそうは言わないけれども、もう一度司法権というものを視野に取り込んで国家権力を問い直す、再審に付する、という必要があるみたいなことを言われているのです。 それで、こうしたことについてたぶん私が記憶している限りで最後の岡村さんから直接うかがったお話ということになるだろうと思うのですが、三権分立の観点から公教育論をもう一度考え直したいということを言われていました。司法・立法・行政の三権分立と言われているけれども、それに応じて社会科学の学問の方も、立法の学問だったり、行政の学問だったり、司法の学問だったりしていると。そういう学問の配置全体を批判的にとらえ返さなければならないのだという、こういう問いの立て方がいかにも岡村さんなのですが、そういうことを言われていて、その一端がここに書かれているように思いました。

  その話の中で特に注目されている司法権というのは、滝村隆一さんなどの国家論で言いますと、そもそも「国家」というのは紛争の調停者というか、「調停する権力」として成り立ってくるもので、「第三権力」という言い方をしますけれども、岡村さんもここで「第三権力」という言葉を何回か使われています。その、紛争を調停する権力が「国家権力」だ。そうなってくると、三権分立についての教科書風のスマートな説明をいったん度外視して言えば、近代に限らず、あるいは、近代にあっても国家権力の本質にストレートに結びついているのは司法権だろうということになる。これは滝村さんも確かそういうふうに言われていましたけれども、そのあたりに話が結びついてくると、大変に面白い議論になったのではないかと思います。たぶん岡村さんはその途上だったのだろうと思いますが、「いや、その先もっとこういうことも岡村さんは書いているのに、あなたは読んでいないのか」というようなことがありましたら、どうぞ教えて下さい。 それともう一つ、この『支配装置』の論稿の中で岡村さんは「批判的な抵抗する主体というのが現れてくる契機がある」ということも言われています。

 ただ、このあたりについては何人かの方が言われていますけれども、裁判闘争などに力を注ぐようになってからの岡村さんの権力認識というか議論の枠組みが、いわば大文字の権力としての「国家権力」対「対抗する主体」とか、あるいは「対抗しない主体」とか、そういうようなものの見方に行ったのかな、ある意味では戻ったのかな、という気もしないでもないのですね。 ところが対抗すると言ったって、それは市民社会の中にいろいろな主体があって社会権力がせめぎ合っているからこそ、「国家権力」なしでは済まないというのがこの社会だとすると、その中でも単に「国家」に「対抗する主体」だけではなくて、たとえば親子関係とか、それから『教育基本法「改正」とは何か―自由と国家をめぐって』という書物の中で、これは広瀬裕子さんも同じ箇所に着目してある冊子に書かれていましたけれども、教育関係の中で子どもたちというのは自らは知らないゴールへ連れて行かれる不安にさいなまされているとか、そうした話が顔を出すくだりがありました。そういう話というのは実はもうちょっと突き詰めていくと、何がゴールかと言えば、近代理性がゴールだというような話につながったかなと思うのですが、どうもそのへんが若きころの岡村さんが考えていたこととこの『支配装置』で言われている議論とまだうまくつながらないままに、岡村さんは他界されてしまったような感じがしています。これはやはり残された者が継ぐべき課題なのではないだろうか、と言いながら私などはどこをどう継げるのか全く分からないのですけれども、今そんなことを考えています。以上です。 

 宮寺 斎藤さん、ありがとうございました。もうこの場に岡村さんがいないのが本当に残念であります。いれば私のほうから指名して反論しろというふうに言いたいところなのでありますが、確かに岡村さんは自分の立てた問題にすべて答えを出し切って亡くなったという形ではなくて、問題を提起して、それを答えようとしている途中でいなくなってしまったという感じが強いので、ぜひ斎藤さんには岡村さんのその考えを引き継いで、「岡村二世」というとおかしいですが、新たな観点で岡村教育学を引き継いでいただけたら、ありがたいと思います。 さきほど整理されました「平等」と「共生」は重なるのかという問題、これはその問題を提起された時点ではかなりリアリティーがあったのですが、現在の時代に引きつけますとちょっとこの問題自身が成り立つか成り立たないか分からないくらいに、両方の概念ともぼやけてしまっています。もう一度やはり整理し直す必要があると思います。  それから自由な思考という点、お触れになりましたが、確かに岡村さんは発想法自身が本当に自由で、またいつも根源的で私たちドキリとさせられる場面が多々ありました。また当人自身も自分の議論について批判されるということを、大歓迎する、そういうタイプでありまして、そういう意味では論争を好むタイプの研究者でした。もういなくなってしまった今ではありますが、今後の私たちは岡村さんに問いかけながら、また岡村さんをある意味では批判しながら、それを継承していくというのが、岡村さんがもっとも望むところではないかと思ったりしております。それでは第一部の一番最後になりましたが北村さん、お願いいたします。


 「岡村さんは『抵抗の闘い』を支え続けた」

北村小夜 私は今まで3人の方が主として岡村さんの研究活動についてお話されたと思いますが、私は障害児の教育にかかわった現場の教師でしたので、ほとんどそのような学問の分野にはあまり介入してきませんでいた。いま、お話を伺っていて「あぁ、そうか。あれはそういうふうにも読めるのだったかな」と思うところがありました。

  定年退職して23年たちまして、だいぶ耄碌しております。今日の主催の方から岡村さんの運動のところを語れと言われたわけですが、もう本当に後期どころか末期高齢者で記憶もさだかでないこともありますが、思い出すことを並べてみました。

  みなさんのお話にもありましたように、確かに岡村さんはレジスタンス的な活動に大変深くかかわっておられましたが、その拘り方は、斎藤さんがおっしゃるようについついかかわってしまって深入りされたようで、もしかしたらそれが寿命を縮めてしまったのではないかと思いさえします。その面でのお付き合いが割りに深かったものですから、その分について少しお話しようと思います。

 振り返ってみると本当にたくさんの課題に応えてくださいました。本当にご苦労かけたなあと思います。 初めてお会いしたのは福岡地裁における伝習館の法廷だったように思います。伝習館闘争というのはもう皆さんご存じでしょうが、1970年に福岡県立伝習館高校教諭の茅島洋一さん、半田隆夫さん、山口重人さんが偏向教育を理由に受けた懲戒免職処分を不当として訴えた裁判です。第一審判決に際して岡村さんが話されたことをそのまま「柳城通信」89号(1979)からコピーしておきましたのでご覧下さい。(ついでにそこにもう一つ入れておきました資料は、小沢有作さんの差別発言を糾す会の記録です。)伝習館闘争当初から拘っておられ、二審ではご自身で緻密に組み立てられた表現で証言されています。 一つ一つ話しているときりがないのですが、それぞれの立場で深く拘ってこられた「伝習館を考える大阪の会」の白鳥さん、「西玉伝習館」の佐橋さんがここにいらっしゃいますのでお話していただいたほうがよいと思うのですが・・・。

 しげしげとお付き合いするようになるのは、やはり前のお二人からもお話ありましたように養護学校義務化阻止の闘争のときでした。 私が岡村さんの理論にひかれたのは、当時の臨床心理学会の機関紙だったと思いますが、「校区論」とか「地域の学校論」について書かれたものでした。当たり前のようにして子どもは地域の学校に行くものだと思っていたのに、養護学校義務化で分けられるようになったとき、岡村さんの「校区論」は分離に反対する私たちに大変役に立ちました。義務化の阻止の闘争は養護学校義務化阻止共闘会議を中心に活動していましたが、やはり義務化が差別的な別学体制であるという点に集中して批判していたように思いますが、岡村さんは戦後教育の見直し一環として出てきたものだということを強調されたように思います。このことは、あとに反省として書かれていますが・・・。柘植書房から出された本『養護学校義務化以後―共生からの問い』(1986)には、義務化によって戦後特殊教育の別学制度として法制上の義務教育体制を完成させた上で、臨教審による戦後教育の見直しに至ることが書かれています。

  養護学校義務化は1971年の中教審答申いわゆる「4・6答申」に示され、政府は1973年に1979年からの実施を決定しています。「4・6答申」には「敗戦後の占領下という特殊な事情のもとにとり急いで行われた学制改革によって生み出されたものを、いつまでも唯一の望ましい学校教育として維持すべきであると考えることは、教育を生々発展する社会教育の一環としてとらえることを阻むものといえよう」などというくだりがあります。

  ともかく義務化阻止闘争の時期には何度も東京に来ていただくし、私たちも出かけて行くこともあって大変心強い仲間でありリーダーでした。

  1987年には、京都「君が代訴訟」が起こされます。これは京都市教育委員会が卒業式・入学式等に「君が代」を国歌として歌わせるために全小中学校長に「君が代」のカセットテープを配布したこと(1986年)に端を発する全国初の「君が代」訴訟です。私はこの事件については何度か再場傍聴に行ったり、陳述書を出したくらいでかかわってはいませんが、これは非常に重要なことで、その後に行われる「日の丸・君が代」に拘る処分撤回闘争のほとんどがこの取組で指摘されたことを土台にしているように思います。いくつもの処分撤回闘争が続きますが、みな、京都「君が代」を土台に取組みを組み立てています。

  そのことは北九州のココロ裁判の竹森さんも「京都の『君が代』訴訟があったから私たちは裁判を起こすことができた」といっています。岡村さんは本人訴訟のココロ裁判を実に親身になって支援しておられました。一審判決は2005年4月26日でしたが、判決を前に福岡地裁前で支援の列の先頭に立っておられる写真があります。

  ココロ裁判というのは1996年ですが、全国に先だって北九州教委が実施した卒・入学式における「日の丸・君が代」の強制、すなわち「四点指導」(国歌斉唱を式次第に明記。国旗をステージ正面に掲げ全員正対する。国歌は教師のピアノ伴奏で、全員起立して心を込めて斉唱する。教師は式に全員参加。)の徹底に従わなかったために処分された教職員が起こした裁判で、一審では「教職員の思想良心の自由は個人の人間観、世界観と直接結びつくものではない」として認めませんでしたが、「四点指導」が47教育基本法の10条違反として減給以上の処分が取り消されました。一部勝訴といっていましたが、大変な成果だと思います。きちんと学習指導要領は大綱的基準であって、細部にまで拘束するものではないということを述べているのですから。残念ながら続けて3年余り闘った二審では全面的に敗訴し上告中です。

  岡村さんは各地の裁判闘争、とく教師の処分撤回闘争には頼まれるまでもなくかかわってこられました。私たちは東京のことしかあまり知りませんが、関西でもたくさんの取組みをされています。いま、処分関係の手元にある見ると、大部分が岡村さんの手を煩わしたものであることに驚きます。 その中に日教組のシンクタンクである国民教育文化総合研究所(略称、教育総研)における小沢有作さんの在日韓国人女性Aさんに対する差別事件がありました。もしかしてご存じない方がいらっしゃるかもしれませんけれども、お配りしているものに、岡村さんの書かれた「民族差別と向き合うために―日本人の戦争責任・戦後責任の問題として」(糾す会編『小沢有作さんの差別発言を糾す運動の軌跡―記録と資料』1997)がありますが、岡村さんの書かれた総括の一部です。糾す活動は、東京や横浜でかなり長期にわたって断続的に行われました。私もほとんど同席していましたが、岡村さんはその都度に上京して中心的に活動しておられました。

  その中で私は岡村さんが朝鮮・韓国人差別に反対して長い間取り組んでこられたことを初めて知ったのですが、若いときからずっと課題にしてこられたそうですね。ですから小沢有作さんの差別発言を糾す会でしたが、実は自分たちの差別を糾す役割を果たしたと思っています。糾す活動は、対象が小沢さんという解放運動などで世間的にそれなりの実績を持つ方でしたので非常に困難でしたが、岡村さんは小沢さん個人だけを糾弾するのではなくて、日本人の差別の問題をどう糾弾するか、自分自身も差別する側だという形で取り組まれ、最後に書かれたものです。最後のまとめの席では「日本人は戦争責任・戦後責任の問題として民族差別のきちんと付き合おうではないか」と語っておられました。 この問題はこれで終わったわけではありませんが、岡村さんの徹底してマイノリティの立場に立たれる姿勢には感動しました。だからこそ、一応の総括ができたと思います。もちろん、当時日高六郎さんが教育総研の所長でしたが、渡仏中のできごとであるにもかかわらず真摯な立場で対応されました。

  それから教育基本法「改正」の取組ですが、多くの日とが教育基本法改悪反対というなか岡村さんは一貫して「改正」反対といってきました。時宜に応じて本がたくさん出される中、私も同じ形で一冊出しましたが、岡村さんは「教育基本法『改正』とは何か~自由と国家をめぐって」(インパクト出版会)を出しておられます。 その教育基本法「改正」反対運動には47教育基本法を丸ごと守ろうというよう大きな流れがありました。その中心には小森、三宅、大内、高橋さんがいました。岡村さんはあの4人組に任せちゃ駄目だと言われていました。

  私は障害者、中でも知的障害者にかかわるなかで、以前から能力差別を許していることに疑問を感じていました。これは憲法とも関係がありますが、第三条には「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける教育を受ける機会を・・・」となっています。、その能力に応ずるを削除して「ひとしく教育を受ける・・・」とすべきと思っていました。2項の奨学の方法も同様ですが、むしろひとしくをめざすなら遅れている人には2倍も3倍も支援したらいいのではないかと思っていましたし、折に触れて発言もしてきました。しかし、運動が大衆化するなかで段々言いにくくなってきました。いま、現行法(47法)び批判をすることは改正派に与することになるからやめろと仲間から糾弾されることもありました。

  そんなとき岡村さんは、長年の主張である第一条の教育目的で、国家が教育目的を決めていることによって、教育が国家の管理機構になっていりという批判とともに第三条の能力主義を指摘して同感の意を示してくださいました。私はそれによって意を強くすることができました。ある日、国会前集会でそのことを話したとき、障害を持つ人々が集まって喜んでくれました。丁度、障害を持つ人たちが自立支援法の問題で国会でのロビー活動や日比谷野音で集会を開くなど結集している時期で教育基本法「改正」反対運動にも合流してくれていました。彼等は「よかったーっ」と言ってから、「能力の問題もそうだけど、なろうとしてなれなないわれわれにしてみれば第一条の「心身ともに健康な国民の育成・・・からして埒外におかれている」などと語ってくれました。岡村さんの励ましにより私が自信を持って発言でき、障害者の人たちとも連帯できたのです。「改正」されても、細々ながら「教育基本法を元に戻そう」という運動はありますが、よりマシにしようという姿勢でかかわっていきたいと思っています。

  このメモの最後には「日の丸・君が代処分撤回裁判支援活動」と書いておきましたが、これは、岡村さんが『処分論―「日の丸」「君が代」と公教育』(インパクト出版会 1995)にも書いてらっしゃるように、たくさんんお闘いの支援をしてこられたのですが、東京でもずいぶんお世話になりました。あとで福岡陽子さんからお話があるかと思いますが、かなりお体の具合がよくなかった時期だったと思いますが、どうしても岡村さんにお願いしたいということでお電話しました~私としては、他の事案ですが岡村さんの提起された事に応えきれていないことがあってためらわれましたが~電話に出られて岡村さんは「最高裁ですか・・・」と言われて随分考えておられたようですが、「やります」とおっしゃってくださいました。引き受けたからにはきちんと当該の方とお話したいからと、わざわざ上京されて実情を把握した上で取り組んで下さいました。このことは他の裁判支援についても同様ですが、本当に真摯にそれぞれの原告の立場に立って意見書や陳述書を形にして下さっています。これからもたくさんお願いしたいことがあるのに、大変残念なことです。  

宮寺 北村さんありがとうございました。北村さんのレジュメにある項目一つ一つ取ってみましても、進歩的な知識人と言われる人たちやそれから労働組合の人たちもそれなりのかかわりをしていたのかもしれませんが、岡村さんはそういう人たちの進歩性を疑って、もっと本質的な支援をした、もっとラジカルな観点から支援をしたということだろうと思います。ときには支援者がいない訴訟にも手弁当で駆け付けて、それで原告側の味方をしてきた。多少ちょっと私ごとになってしまうかも分かりませんが、北村さんのレジュメの一番下に書いてあります「日の丸・君が代処分撤回裁判支援」でありますが、ちょうどこれに岡村さんがかかわろうとしているそのとき、私はある学会誌の編集にかかわっていて、岡村さんに原稿を依頼したことがあります。そのとき岡村さんからの返事は、自分はもう体力が尽きるギリギリなのだと。最後の残っている体力はもう学会に対する奉仕よりも、今困っている一番自分を必要としている人のために使い果たしたいと、そういう返事だったです。この裁判はまだ続行中で決着がついていないわけでありますが、岡村さん自身、一番最後の最後にこの裁判闘争にかかわって命が尽きたということで、こんな言い方をすると、奥さんには失礼かと思いますが、ある意味で岡村さんは本望だったと。一番自分が力を尽くしたいと思っているところに力を尽くして、それでそこで命が尽きたというので、岡村さん自身からすると「まあ、やるだけのことはやった」という気持ちで旅立って行ったのではないかと、陰ながら思います。どうもありがとうございました。それではこれで一応4人の方による報告は一段落させていただきます。 (休憩)  


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           <岡村達雄さん年譜> 


 1941年 5月 9日 東京都生まれ 

 1966年 3月31日 早稲田大学第2文学部露文学科卒業 

 1966年 4月 1日 東京教育大学大学院教育学研究科修士課程教育行財政学専攻入学

 1969年     最初の単行本・持田栄一編著『講座マルクス主義 6 教育』(日本評論社)

 1970年 9月19日 弥生さんと結婚。

 1971年  長男・継史さん誕生。

 1973年 3月31日 東京教育大学大学院教育学研究科博士課程教育学専攻 単位取得退学

 1973年 4月 1日 長崎大学教育学部に助教授として着任

 1974年   女・あゆのさん誕生 

 1976年 9月    最初の単著『教育労働論―公教育の構造と官僚制』(明治図書)

 1977年       日本教育行政学会理事(~2000年) 

 1982年 5月25日 『現代公教育論』(社会評論社、増補改訂版は1966年)

 1983年 4月 1日 関西大学文学部に教授として赴任 

 1983年 5月31日 編著『『教育のなかの国家 現代教育行政批判』(勁草書房)

 1986~88年    編著『教育の現在―歴史・理論・運動』(社会評論社)

 1995年11月    『処分論―「日の丸」「君が代」と公教育』(インパクト出版会)

 2002年 1月31日 編著『日本近代公教育の支配装置―教員処分体制の形成と展開をめぐってー』(社会評論社、改訂版は2003年) 

 2004年 5月15日 『教育基本法「改正」とは何かー自由と国家をめぐって―』(インパクト出版会)刊行 

 2007年 3月31日 関西大学を定年により退職

 2008年 7月 8日 逝去(享年67歳) 


           主要著作目録 

 1973年12月    「教育労働と公教育」 持田栄一編著『教育変革への視座』(田畑書店) 1975年 3月 1日 「福祉国家の教育像 日本」 持田栄一・市川昭午編著『教育福祉の理論と実際』(教育開発研究所)

 1976年 9月    最初の単著『教育労働論―公教育の構造と官僚制』(明治図書)

 1980年 4月30日 日本臨床心理学会編・共著『戦後特殊教育 その構造と論理の批判』(社会評論社)刊行 

 1982年 3月31日 編集・解説『教育実践の記録 別冊2 現代教育論争』(筑摩書房)

 1982年 5月25日 『現代公教育論』(社会評論社、増補改訂版は1966年) 

 1983年 5月31日 編著『『教育のなかの国家 現代教育行政批判』(勁草書房)

 1986年 5月27日 『養護学校義務化以後―共生からの問い』(柘植書房)

 1988~89年    編著『教育の現在―歴史・理論・運動』全三巻(社会評論社) 

1988年1月30日 第一巻『戦後教育の歴史構造』

1988年11月30日 第二巻『現代の教育理論』 

1989年11月     第三巻『教育運動の思想と課題』

 1988年9月26日 伊藤和衛編著・岡村達雄編集協力『講座 公教育体系1 公教育の理論』(教育開発研究所)

 1990年10月    共著『教育の解放を求めて』(明石書店)

 1994年 4月    共編著『学校という交差点』(インパクト出版会)刊行。

 1995年11月    『処分論―「日の丸」「君が代」と公教育』(インパクト出版会)

 1999年 6月    「教育裁判としての『君が代』訴訟の位置と特色 」 「君が代」訴訟をす  すめる会篇『資料「君が代」訴訟』(緑風出版)

 2002年 1月31日 編著『日本近代公教育の支配装置―教員処分体制の形成と展開をめぐってー』(社会評論社、改訂版は2003年)

 2003年 2月    共著『人権の新しい地平』(学術図書出版社)

 2004年 5月15日 『教育基本法「改正」とは何かー自由と国家をめぐって―』(インパクト出版会)刊行 


    2005年3月15日 岩手にて 中央が岡村達雄さん( 元井一郎さん提供)               



嶺井正也の教育情報

日本やイタリア、国際機関の公教育政策に関するデータ、資料などを紹介する。インクルーシブ教育、公立学校選択制、OECDのPISA、教育インターナショナルなどがトピックになる

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