二冊の本の第一印象

アントネット・ムーラ『イタリアのフルインクルーシブ教育 障害児の学校を無くした教育の歴史・課題・理念』(明石書店、2022年)とガート・ビースタ『教育にこだわるということ  学校と社会をつなぎ直す』(東京大学出版会、2021年)の二冊をざっと目を通した印象を記しておきたい。

良書を深く読み込んだ上での感想でしかない事を、あらかじめ断っておきたい。


まず最初の本。主題の「フルインクルーシブ教育」の「フル」という形容詞はイタリアでほとんど見かけない。この点について違和感を覚えたが、副題に「障害児の学校を無くした」とあることについて、あきれてしまった。以前、アメーバブログにも書いたが、イタリアには特別学校が現存するからである。その証拠の一つがミラノのある「ラリッサ・ピーニ特別小学校」の存在

なお、本ホームページにも書いたことがある。

https://inclmilanoitalia.amebaownd.com/posts/16410709


二つ目の本。

インクルージョン(包摂)という概念にはある特定の解釈がなされがちであるから、これからトランスクルージョンという考え方が必要だという。そうかなあ??という印象

 特定の解釈とは「包摂(インクルージョン)に関する主要な緊張の一つは、包摂を、「外部(outside)」にいる人びとを「内部(inside)」に連れて行く過程として考える限り、ある人びとをインサイダーとして、まあ、別の人びとをアウトサイダーとしてレッテルを貼ってきた社会的、政治的構造そのものを再生産することにつながりかねないということである。より深い意味では、包摂というアジェンダがそれを顕在化され、克服しようとしてきた、分断や権力関係そのものを維持させることにつながりかねない。これは、「外部」にいる人びとを包摂することを通じて、より包摂的な行為と存在の仕方をもたらそうとするすべての試みが、自動的に悪いとか無用のものだということを意味するものではない。しかし、包摂をそのような意味でのみ理解することで、私たちはそのなかから包摂(インクルージョン)と排除(エクスクルージョン)に関する問いが生れてくるような、より根本的な問題に取り組むことを妨げられる可能性がある」ということである。

 こうした理解をなくすために「トランスクルージョン」という新たな概念が必要である。それは「アウトサイダーとインサイダーの両者の位置を(それゆアイデンティティや関係性をも変えていく動きを明確にすることを求めるmのである」と。

 この文章をよみながら、かつての「インテグレーションからインクルージョンへの転換」に関する議論を思い出した。インテグレーションは、主流から分離された人々(セパレーション)を主流に受けいれるこであるが、インクルージョンはエクスクルードされた人々を、主流の文化、意識、制度を変えながら受け入れるものだという議論。

 また日本においては、変革的意味をもっていた「共生」という言葉が、いつの間にか体制維持の言葉になってしまったことも。

 新しく使われるようなりそうな「トランスクルージョン」がいつの間にか換骨奪胎されることはないのだろうか。

嶺井正也の教育情報

日本やイタリア、国際機関の公教育政策に関するデータ、資料などを紹介する。インクルーシブ教育、公立学校選択制、OECDのPISA、教育インターナショナルなどがトピックになる

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